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2009年1月

2009年1月30日 (金)

疾病や障害の逆説的な役割・創造的な力を語る 『火星の人類学者』

 私の娘は点頭てんかんという重い病を抱えて生まれてきました。知的な障害を抱えながら、今年で20歳になります。オリヴァー・サックス博士の医学的エッセイ集『火星の人類学者』の「はじめに」で、博士が「欠陥や障害、疾病は潜在的な力を引き出して発展、進化させ、それがなければ見られなかった、それどころか想像もできなかった新たな生命の形を生み出すという逆説的な役割を果たすことができるのである。」と述べている言葉に、母親として大きく励まされました。

・事故ですべてが白黒に見える全色盲に陥った画家
・脳腫瘍により、新たな記憶が刻めなくなってしまった青年
・激しいチックを起こすトゥレット症候群の外科医
・白内障の手術により視力を回復し「見ること」を学習する元盲人
・故郷の風景の詳細な記憶から絵を描き続けている画家
・自閉症の天才的な少年画家
・「わたしは火星の人類学者のようだ」と自ら述べる自閉症の動物学者

 脳神経に障害をもつ七人の患者の病状を臨床的かつ客観的に語りながら、同著のテーマである疾病のパラドックス、つまり疾病の「創造的な」力を、浮き彫りにしてゆきます。
斬新なテーマもさることながら、博士が、障害を抱えて生きるそれぞれの内面世界を深く洞察していることが、この本の最大の魅力かもしれません。客観性に裏づけされた洞察に、博士の医学的な探究心のみならず、深い人間愛を感じさせられました。博士の文章力(描写力)もすばらしいです。
 

 生後10ヶ月で点頭てんかんと診断された時は、「歩くことも話すこともできないでしょう。」と言われた娘が、演劇のサークルに所属して、舞台に立っていますし、水泳ではマンツーマンの指導を受け、障害者の水泳大会でメダルをいただいています。娘が障害を抱えながら育ってゆく姿を通して、人間の脳の補償作用のようなものを漠然と感じていましたが、同著を読み、現代の脳科学では証明できない脳の働きに対して確信を持ちました。

 娘と生きている中で、「障害」と「健常」との違いなんてあるのだろうか。人間皆、何らかの障害を抱えて生きているのではないかと感じることがしばしばです。また、障害を治すことを目的とした学校教育のあり方に疑問を抱いたこともあります。
 脳神経に障害を抱え、不可思議な症状に悩まされながら、その障害とともにアイデンティティを築き、自分なりの人生を創造的に歩んでいる7人の生き様を通して、障害を治療や訓練の対象とのみ見なすのは誤りではないかと感じました。博士が語る7人の姿は、人間とは、また、生きるとは・・・と哲学的な問いに対する示唆にもなり得るのではないでしょうか。

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夜桜の花のアーチがまさに異界に開かれた門のよう・・・大人のあなたにお薦めの絵本 『いつか、ずっと昔』

 結婚を控えたれいこと浩一が夜桜見物に来ました。
 見渡すかぎりの桜、濃紺の闇に、つめたいほど白い花がしんとしずまりかえってさいています。風が吹くたびに花びらがこぼれます。浩一の腕にもたれて、うっとりと夜桜をながめるれいこに、次々と現れる過去の恋人たち。木の根のかげから、しゅる、と音がして現れたもの。木々の間をうろうろと動き回っていた白くて、まるく太ったもの。豚舎の入り口に、うしろから月光をあびて、ちょこんと立っていたもの。
 桜の幹から養豚場、海を経て、再び花びらの中に立つ浩一のもとに戻ってきたれいこ。れいこは、浩一の腕にしがみつきながら、「さよなら」と昔の恋人たちに、そっと告げます。さて、れいこの恋人達とは・・・。
 

 『つめたいよるに』収録の「いつか、ずっと昔」を底本として描き下ろされた絵本です。荒井良二さんのユニークなイラストが江國香織さんの物語の世界を幻想的に彩っています。夜桜の花のアーチがまさに異界に開かれた門のようです。

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しろいうさぎとくろいうさぎのほのぼのと切ない愛の物語ーくろいうさぎの悲しそうな顔を忘れないでいたい  『しろいうさぎとくろいうさぎ』

 広い森の中に住んでいる白いうさぎと黒いうさぎ。3色使いの墨絵のような濃淡の絵の世界で語られるニひきのうさぎの愛の物語。ページをめくるたび、二ひきのうさぎのふわふわとした毛の触感が感じられます。

 二ひきは毎日、一緒に楽しく遊びます。
 ある日のこと。
 たんぽぽが咲き、たんぽぽの綿毛が飛ぶ森の中の野原で、「うまとび」をする二ひき。
 ひなぎくやきんぽうげの咲いている野原で、かくれんぼをする二ひき。
 黒いちごの茂みのまわりで、ぐるぐるとかけっこをする二ひき。
 楽しそうなニひきですが、時おり、黒いうさぎが、急に座り込んで、とても悲しそうな顔をします。「どうしたの?」と聞く白いうさぎに、「うん、ぼく、ちょっと、かんがえてたんだ」と答えます。泉できれいな水を飲んだり、たんぽぽをたくさん食べたり・・・満ち足りたように見えるニひきですが、また、黒いうさぎは、悲しそうな顔をして、座り込んでしまいます。白いうさぎが尋ねると・・・。

 森の澄んだ空気、泉のきよらかな水、木の葉のそよぎ、草いきれ、月の光・・・すべてが二ひきを祝福しているようです。そっと手を重ね、たんぽぽの花を耳にさす二匹、輪になって踊る森の動物達・・・ほのぼのと心温まるラストシーンの中、なぜか黒いうさぎの悲しそうな顔が浮かびます。

 原題は、THE RABBITS’ WEDDING、1958年に出版されています。うさぎの毛の黒と白が人間の肌の色の象徴であるとすれば・・・。ほのぼのと切ない愛の物語、黒いうさぎの悲しそうな顔、その切なさを忘れないでいたいと思います。

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猫の国に幸せをもたらした不思議なお客様  『ねこのくにのおきゃくさま』

 海を越えたはるかかなたに、猫の国がありました。
 猫の国の人たちは、みな働きもの。食べるものも、着るものも、そのほか、暮らしに必要なものは全部自分達の手で作っていました。何の不自由もない暮らしでしたが、何かが足りませんでした。
 働くことは知っていましたが、楽しむことを知りません。音楽や踊りがないのです。もし、私たちの暮らしから音楽や踊りがなくなったら・・・と思うと、猫の国の住人たちがどんな思いで暮らしていたのかほんの少し想像がつくかもしれません。
 そんな猫の国に、海の向こうから見たこともない舟がやってきました。その舟から、見たこともない人が二人降りて来ました。二人はお面をつけていて、目のさめるような色の衣装を着ていました。一人が筒のようなものをたたいて、歌を歌い始め、もう一人が、それに合わせて、しなやかに体をゆすり始めました。
 猫たちは、すっかり見とれてしまいました。音楽と踊りを知らない猫たちは、見ているだけで、とてもいい気持ちになったのです。二人のことが王様の耳に届き、御殿に招かれることになりました。王様もお妃様もだれもかれも二人の踊りと音楽にすっかり満足しました。「どうぞ、おめんをおとりくだされ」と言われた二人でしたが・・・。
 さて、この二人の不思議なお客様の正体は・・・。

 イラストの色彩、猫達の表情が明るく豊かです。芸術性の高い絵本です。二人の不思議なお客様によって猫の国の人達はとても幸せになりました。『きつねのホイティ』の作者であるスリランカの絵本作家、シビル・ウェッタシンハの作品。大人のわたしは、ふっと作者の人生哲学に思いを馳せて愉快な気分になりました。

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どんどんどんどん増え続けるものへの恐れとそれを留める不思議な力  『にげだしたひげ』

 むかし、むかし、スリランカという国に、小さな村がありました。その村のじいさんたちはひげを長くのばしていました。ひげが長くなるとまな板で魚をきるように包丁でひげを切ってもらっていましたが、ハンプじいさんだけは、ねずみにひげをかじってもらっていました。
じいさんがねずみにごはんをあげると、ねずみはお礼にじいさんのひげをがじってあげるのでした。仲良く暮らしていたじいさんとねずみでしたが、ある日のこと、ねずみの歯が丸くなってしまい、かじってもかじってもひげは短くなりません。
 ひげはたちまち部屋いっぱいにのびて、外へ飛び出してゆきました。パンプじいさんときたら、ひげにうずもれて、その中でぬくぬくと眠っています。ところがひげは、そこらじゅうをぐるぐるぐるぐる巻いて、どんどんのびてゆきました。ぐんぐん ぐんぐん ぐるぐる ぐるぐる。村中が大変なことに・・・。ひげに追いかけられた少女ラトゥマニカは、家にかけこむとひげの先を引っ張って、ある場所に突っ込みました。さて、ラトゥマニカはひげの先をどうしたのでしょう。

 「おいしいおかゆ」というグリムの昔話を思い出しました。小さなお鍋が、ぐつぐつぐつぐつおかゆを煮続けて、町中がおかゆでいっぱいになるお話です。
どんどんどんどん増え続けるものへの恐れとそれを留める不思議な力。『おじいさんのひげ』も『おいしいおかゆ』も、増え続けるものを止めたのは女の子でした。
 ヨーロッパのドイツで生まれたグリムのお話とアジアのスリランカで生まれたお話に共通する不思議な世界。人間の無意識の混沌を思いました。そして、その混沌から人間を放つものがいかに単純なものであるかを思いました。単に愉快なだけでなく、奥深い物語、シビル・ウェッタシンハのイラストが生き生きとのびてゆくひげを描いて、豪快です。

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おやすみ前の子ども達に、そして、少し疲れた大人のあなたに。  『みんなおやすみ アルメニアの子守歌』

 一日中空にいたお日様が疲れたら、一日中吹いて疲れたそよ風へ、そして、一日中風に吹かれて疲れた葉っぱへと・・・次々と眠る時間が訪れます。
 お日さま、そよ風、葉っぱ、小鳥、りす、こどもへと眠る時間がリレーのように伝わってゆきます。夜の「おやすみなさい」のリレーとでもいいましょうか。ひとつひとつが眠りにつく場面には、その前に眠ったものの健やかな寝姿が描かれています。
 自然の木々や動物たち、太陽や空や月、人の姿が、繊細な筆遣いとやさしい色彩で描かれていて、疲れた心に癒しを与えてくれます。
 アルメニアの子守歌を題材に描かれた絵本です。絵本を閉じる時、みんなに「おやすみなさい」を告げたくなるのではないでしょうか。

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夜眠る前にお勧めの絵本  『おやすみなさいのほん』

 一日が終わると、太陽が沈み、眠る時間が訪れます。
 眠るのは人間であるわたし達だけではありません。小鳥たち、魚たち、羊たち、森の獣たちーさるやライオン、野ねずみ、カンガルーたちや子猫たち、うさぎたち、蜂たち、りすたち・・・それぞれの眠る様子が詩的なやさしい言葉で語られ、寝姿がダイナミックに描かれています。
 それぞれの眠る場所や、眠る姿は違いますが、どの生き物も健やかな表情をしています。ページをめくるたびに眠りを誘う安心感に満ちてきます。そして、生き物だけでなく、帆掛け舟や自動車やトラックまで・・・。

 最後に「ものいえぬちいさなものたちをおまもりください」という祈りの言葉へと結ばれてゆき、敬虔で安らかな気持ちが満ちてくる絵本です。信仰の有無を問わず、生きとし生けるものを守ってくれる大きな存在を予感させてくれる絵本でもあります。絵本を閉じる時、安心して「おやすみなさい」を告げることができそうです。
 アルメニアの子守歌を題材に描かれた『みんなおやすみ』とともに夜眠る前に疲れた体と心を休めるためにお勧めの作品です。

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成長するとは自分を変えることではなく、本当の自分を知ること 『祈祷師の娘』

 主人公は、中学一年生のはる(春永)ちゃん。はるちゃんのお母さんである春子さんは8年前にいなくなってしまった。記憶の中のお母さんには顔がない。はるちゃんは、祈祷師のおとうさんとおかあさんと和花ちゃんの四人で暮らしている。家族関係がやや複雑だ。

・おとうさんとおかあさんは、実の兄妹。本当の夫婦ではない。
・四歳年上の和花ちゃんは、おかあさんの実の娘だが、おとうさんとは血の繋がりがない。
・はるちゃんは、お母さんである春子さんの連れ子だから、おとうさんともおかあさんとも和花ちゃんとも、つまり、家族の誰とも血の繋がりがない。

 はるちゃんの一家は、農業を本業としているが、祈祷師という家業をおばあちゃんから受け継いでいる。はるちゃんは、おとうさんと一緒に毎朝辛い水行をしている。祈祷師のおとうさんにもおかあさんにも、そして、和花ちゃんにも祈祷師としての力が与えられている。見えないものが見えたり、お祓いやお清めができる。家族の中で、自分だけが何の力も与えられていないことを自分が一番よく知っているからだ。
 キャベツを段ボール箱に詰める手伝いをしたり、金魚の世話や食事のあとの茶碗を片付けたり・・・家族の役に立つことを一生懸命に行っている。家族の中での疎外感を克服するためだ。しかし、その疎外感は、はるちゃんだけが感じている。そんなはるちゃんの初恋、友情、そして、家族愛の物語。

 学校では幼馴染の久美ちゃんばかりが目立つ。せっかく好きになった山中君も久美ちゃんのもとに・・・。特別な力もなく、取り立てて美しくもない主人公はるちゃんだが、ひたむきで、純粋で、人を妬んだり、疑ったりしないはるちゃんのことを応援したい気持ちで、最後まで一気に読み進んだ一冊。
 見えないものが見えるおとうさんやおかあさん、和花ちゃんは、たまたま祈祷師を生業としているから人間を超えた力があってもいい。でも、近所に住む小学生のひかるちゃんは、見えないものが見えるというだけで友達からは「ばけもの」扱いされ、両親からも受け入れられない。見えないものが見える力を得たいと思っているはるちゃんだけが、見えないものが見えるひかるちゃんの存在をそのまま受け止めることができる。ひかるちゃんの存在を人前で堂々と肯定したその時から、はるちゃんに転機が訪れる。はるちゃんに転機が訪れるまでには・・・。

 成長するとは自分を変えることではなく、本当の自分を知ること。中学一年生のはるちゃん(春永)の自己肯定の物語。不思議な触感で描かれた物語、作者である中脇初枝さんのことも応援したくなった。

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タゴールの詩に思いを馳せて、生きるとは、そして、幸せとは何かを考えさせられる一冊  『家なき鳥』

 インドの貧しい家の娘として生まれたコリーの半生を描いた物語。
 貧しさゆえに13歳で嫁ぎ、持参金が目的で娶られたコリー。花婿は結婚後すぐに病死、その後、義母にこき使われ、「未亡人の町」に捨てられる。お金もなく、教育も受けていない、カースト制度の中で身分も低く、若くして未亡人となってしまったコリー。コリーのような少女は、インドの中に数多く存在するという。
 女の子には教育は必要ないと考える母親、嫁を労働力としか見なしていない義母、インドの女性の識字率は低い。コリーは、母親から教わった刺繍の中に自己表現を見出ながら育っていく。朝から晩まで、義母にこき使われ、働き尽くめの日々、わずかな時間を惜しんで、義父から文字を習う。義父が愛したタゴールの詩を読むために・・・。

 コリーがいちばん気に入っているタゴールの詩は、鳥の群れが昼も夜も空を飛んでいく姿をえがいた詩だ。群れの中に一羽、かえる家のない鳥がいる。いつも違う場所に飛んでいく。タゴールの詩の中の一羽の鳥に自分の姿を重ね、心の支えにしていたのだろうか。義父の死後、暮らしのために、義父が大切にしていたタゴールの詩集を売るという義母に、実の母親から結婚の時に贈られた銀の耳飾りを手渡してしまう。コリーにとっての唯一の財産だった。
 義父の死後、タゴールの詩集だけが手元に残り、未亡人の町に捨てられたコリー。実家には帰ることができない。まさに「かえる家のない鳥」のようだ。
 逆境の中、母親から習った刺繍とタゴールの詩を支えに、明るく前向きに生き抜く。そして、未亡人を支援する女性と出会い、タゴールの詩を理解してくれる伴侶とめぐり合う。
貧しさと身分の低さと教養の無さを克服する力をコリーに与えたタゴールの詩に思いを馳せる。原文を読んでみたいと思った。コリーが、唯一の財産と引き換えに得たタゴールの詩集。「人はパンだけでに生きるものではない。」という聖句を思った。コリーの得たささやかな幸せに救われる。生きるとは、そして、幸せとは何かを考えさせられる一冊だ。

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手元に置いておくだけでも心が豊かになる絵本  『ローズマリーは思い出の花』

 左ページにはターシャ・テューダーのイラスト、右ページには美しい縁取りが施された書き込み可能なカレンダーと続く「メモリーブック」形式の絵本です。
 カレンダーには曜日が入っていませんので、どの年でも書き込みがが可能となっています。
 ターシャのイラストには、エミリー・ディキンソンに始まり、イエーツやエマソン、ジョン・ラスキンらの言葉が引用として、ひと言ずつ添えられています。いずれも洞察に満ちた魅力的な言葉で、ターシャのイラストとともに深く味わうことができます。
 JANUARYに引用されているエミリー・ディキンソンの言葉が心に残ります。

 どんな船よりもさまざまな異国へ
 わたしたちを運んでくれる書物
 どんな駿馬よりも勇ましく
 言葉はずむ詩のページ
 この関所は通行料もとらず
 どんな貧しい者も通してくれる
 なんとつつましいものよ
 人の魂を運ぶ馬車は

 私にとって、まさにターシャの絵本が「人の魂を運ぶ馬車」のひとつだからです。ディキンソンの詩の言葉を美しくイメージしたターシャのイラストも素敵です。12ヶ月間の引用の言葉を美しくイメージしてゆくターシャの絵のセンスには並々ならぬものを感じます。手元に置いておくだけでも心が豊かになる絵本ではないでしょうか。人生の記念すべき年の贈り物として、また、自分のための記念としてお勧めの一冊です。

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アンデルセンの童話をより深く味わうためにお勧めのアンデルセン伝 『アンデルセンー夢をさがしあてた詩人』

 子どもの頃くり返し読んだアンデルセンの童話を大人になって読み直してみると、子どもの頃の新鮮な感動が甦ると同時に、子どもの頃には感じることができなかった人生の知恵や弱者への愛、詩やユーモアを行間に読み取ることができて、深い味わいがあります。
 最近『完訳 アンデルセン童話集』(岩波文庫)の全7巻を読みました。“完成された形式”、それぞれの物語に流れる詩情、文体のもつはつらつさ・・・アンデルセンの童話には他の作家には見られない特徴があります。童話作家として不動の世界的名声を得たアンデルセンですが、その生涯は決して恵まれたものではありませんでした。
 デンマークのオーデンセに貧しい靴職人の子として生まれながら、幼い頃から有名になることを夢みていました。そして、わずか14歳の若さで俳優を志し単身でコペンハーゲンに向かいます。
 貧困、祖父と父親の精神異常、背が高く不恰好、異常に繊細な感受性、孤独癖、無教養、俳優として報われない努力、そして、報われない恋と放浪・・・。
 

 ルーマ・ゴッテンによる『アンデルセン 夢をさがしあてた詩人』は、童話作家アンデルセンの詩人としての特質に焦点を絞って、その生涯を辿っています。自らも児童文学作家である著者は、編年体ではなく、アンデルセンの童話を巧みに引用しながら、その内面的な葛藤を語り、アンデルセンの実人生がいかに童話に反映されているかを説き明かします。
 「たとえば『心からの悲しみ』の中には不幸せ、『みにくいアヒルの子』には彼の苦悩、『モミの木』には彼の野望が、というように。そして『しっかり者の錫の兵隊』には、彼の魂といってよいものがこめられています。」(同著289ページより引用)
 アンデルセンの作品には必ずと言ってよいほど、アンデルセン自身が何らかの形で投影されていると言われています。アンデルセンの人生を知ると、その作品の味わいがさらに深くなるのではないでしょうか。
 同著は、恵まれない境遇から自らを世界的童話作家へと成らしめたアンデルセンの詩人としての素質と愛すべき清純さ、そして堅忍不抜の精神を見事に浮き彫りにした秀逸のアンデルセン伝です。
 アンデルセン自らが綴った『アンデルセン自伝』(岩波文庫)と『アンデルセン自伝』の第一章(誕生から14歳でコペンハーゲンに出発するまで)を絵本にふさわしく構成した『アンデルセン自伝 わたしのちいさな物語』(あすなろ書房)と合わせてお勧めします。

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絵本史の黎明期の記念すべき絵本ー150年以上読み継がれている世界的ベストセラー絵本  『もじゃもじゃペーター』

 精神科の開業医だったホフマンがクリスマスの贈り物として、3歳になる自分の子どものために絵を描き、詩を添えた創作絵本、幼い子ども達のために創られた最初の絵本です。
 指しゃぶりをする男の子、マッチで火遊びをした女の子、爪や髪の毛をのばし放題の男の子・・・言うことを聞かない子ども達が受ける罰は結構怖いものです。躾絵本的な色彩が濃いものの、愉快なイラストによって辛うじて面白さをかもし出しています。昔話を読むような感覚で受け止めるとよいのでしょうか。

 初版が1845年に出版されるやいなや大評判を得て、以来150年以上にわたって多くの国の言葉に訳され、600版以上を重ねています。非常に教訓的な内容ですが、絵本の中の世界的なベストセラーとなった記念すべき一冊、シリーズほるぷクラシック絵本の中で現在も購入可能な絵本です。

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ロシア版シンデレラ物語ー芸術性の高い絵本として復刊を希望ています。  『うるわしのワシリーサ』

 物語の主人公は、美しいワシリーサという女の子。
 8歳の時に母親に先立たれたワシリーサは、意地の悪い継母に引き取られ、二人の連れ子と継母の三人からひどい仕打ちを受けながら働かされますが、実母から授かった魔法の人形がワシリーサを救います。
 ロシアの魔女(鬼婆)ババ・ヤーガが登場し、ロシアの森を背景に繰り広げられる物語。『うるわしのワシリーサ』はロシア版シンデレラ物語と謳われているロシア昔話です。
法律学を学ぶかたわら、絵画学校に通ったイヴァン・ビリービンは、バレエの舞台装置や衣装デザインをてがけるかたわら、ロシアの昔話や童話のイラストを描き、芸術性の高い作品を遺しています。
 絵本が出版されたのが20世紀初頭の1902年。
 ビリービンは、本の一ページ一ページを表現の重要なフレームと見なし、縁飾りやレタリングとイラストレーションを一体化させて、本全体を一つの独立した芸術世界としています。
 シリーズほるぷクラシック絵本の16冊中でも、とりわけ美しい大型絵本です。物語もイラストも芸術性が高く、ぜひこれからも読み継いで欲しい絵本です。現在絶版ですので、復刊を希望しています。

 復刊ドットコム投票ページ

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芸術性の高い歴史絵本ーM・ブーテ・ド・モンヴェルの最高傑作 『ジャンヌ・ダルク』

 百年戦争の後期、フランスの解放を神に託されたと信じ、シャルル七世から授かった軍隊を率いてオルレアン城の包囲を解くなどフランスの危機を救った少女ジャンヌ・ダルクを描いたモンヴェルの絵本。

 わずか18歳にして国民的英雄となったジャンヌ・ダルクはドンレミイというフランス東部の小さな農村の娘でした。若き乙女ジャンヌ・ダルクの純真さ、美しさが繊細に穏やかな色調で描かれています。
 また、当時の王侯貴族の絢爛な様、英仏軍の戦いの有様、ジャンヌ・ダルクを囲む民衆の表情、宗教裁判の非情な様、監獄の中の悲惨さ、夢に現れる聖女の美しさ・・・ジャンヌ・ダルクが勇敢に闘った後、イギリス軍の捕虜となり、生きながら火あぶりの刑に処されるまでの全てが動きを伴い、まるでお芝居の一場面を観るように描かれています。
 ジャンヌ・ダルクが勇敢にイギリス軍と闘った地オルレアンは、モンヴェルの生まれ故郷でもあり、特別な思い入れがあったのでしょう。モンヴェルの作品の中で最高傑作と評されています。

 同時代のイギリスの絵本作家ケイト・グリーナウエイやウォルター・クレインの影響を受けつつも、穏やかな色調と慎み深い表現がモンヴェル独自の魅力となっているのではないでしょうか。
 

 一冊の絵本を通して、ジャンヌ・ダルクの勇気とひたむきな信仰が感じられる、洗練された美しい絵本、表紙がクロス張りの豪華な絵本です。現在絶版となっていますが、歴史絵本としても、芸術性の高い絵本としても復刊の価値のある絵本であると信じます。多くの子ども達に読み継いで欲しい絵本としてお勧めします。

 復刊ドットコム投票ページ

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子ども達に伝承すべき日本文化の生活の知恵と工夫 『昔の子どものくらし事典』

 子ども時代の記憶を辿ると何が見えますか。そして、どんな音や声が聞こえますか。
 私が子ども時代を過ごした昭和30〜40年代は、はらっぱや空き地、路地裏で年齢の異なるたくさんの子ども達が遊んでいました。今のようにテレビゲームなど無い時代でしたので、天気の良い日は夕暮れ時まで外で元気に遊んだものです。ゴムとび、まりつき、大なわとび、木登り、缶けり、ちゃんばらごっこをする男の子たち、べーゴマで遊ぶ男の子たち・・・たくさんの子ども達の姿とその元気な声、なわとび歌や手まり唄が聞こえてきます。

 しかし、幼い頃の記憶は夏の空をゆくちぎれ雲や夕陽にきらめく波のように断片的でとらえがたいものでもあります。「お母さんの子どもの頃はね・・・」「先生の子どもの頃はね・・・」と子どもたちに語りたくなった時、お勧めの一冊が『昔の子どものくらし事典』、昭和30〜40年代を中心とした子どもたちの家庭や学校での生活、遊び、年中行事が写真入り、イラスト入りで分かりやすく紹介されている大型本です。

 「玄関そうじ」「くつみがき」「おつかい」「子守り」「かせくり」・・・子ども達には家庭での役割が与えられていました。「草花遊び」「土手すべり」「わりばし鉄砲」、「何もなくても遊べる」[外遊び][家遊び]、「さいごまで大事につかったえんぴつ」や「生まれ変わる古いセーター」・・・経済的に豊かな時代を生きている今の子ども達にぜひ知ってもらいたい生活の知恵や工夫に満ちています。
 「鬼」という言葉の語源を、「花いちもんめ」の言葉の由来を知っていますか。各ページの「ことば」「コラム」「マメちしき」には子ども達に伝承すべき日本の文化に関する知識が分かりやすく説明されています。
 今は姿を消してしまった女性用の運動着の「ちょうちんブルマ」や街頭紙芝居、買い物かご、ソノシート、空き地に置かれた土管(ヒューム管)などなつかしい品々や風景の写真に思わず見入ってしまいました。幼い頃のアルバムを開くように手にするのもいいでしょう。
 また、子ども達に伝承すべき日本文化の生活の知恵と工夫を学ぶ時に参照するのもいいでしょう。子ども達が一人で読むのではなく、両親、祖父母、学校の先生など大人が自分の思い出を語りながら、読んであげるのが一番いいのではないでしょうか。
 同じく岩崎書店刊行の『くらべてみよう100年前と』(全五巻)『学習に役立つくらしのうつりかわりシリーズ』(全8巻)と小林 克監修『昔のくらしの道具事典』と併せてお勧めします。

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ことばって何? 「母語」について、「ことば」について考える時にお勧めの一冊  『にほんご』

 「ことばには いつも きもちが かくれている。」
 ことばって何?と問われた時、どう答えるだろうか。
 今の自分にぴったりの答えが、見つかった。
『にほんご』という本の中の一節だ。

「けれど きもちが あんまり はげしくなると
 ひとは それを ことばに できなくなることもある。
 わらったり ないたり、
 ひとりぼっちで だまりこんだり、
ぼうりょくを ふるったり・・・・
そんなとき、ことばは こころのおくふかく かくれてい る。」と続く。
 ことばの中に気持ち(心)が隠れていて、心の奥深くにことばが隠れているという哲学的な言葉観にはっとさせられた。

 『にほんご』は、1979年の初版から読み継がれていることばの本のベストセラー。安野光雅、大岡信、谷川俊太郎、松居直によって、自由に、独創的に構想された、文部科学省の学習指導要領にとらわれない小学校1年生の国語教科書である。

 「ことばは からだの なかから わいてくる。」と言う一節も心に響く。
 小学1年生と言えば、ことばを体系的に学び始める時期だ。初めて論理的にことばに触れる子ども達に向かって、ことばは頭ではなくて、体の中からわいてくるという。
 ことばの豊かさを求めるならば、豊かな体験を求めよというメッセージだろう。
 「にほんご」という題名でありながら、世界各地のことばを紹介している。
ことばが意味伝達、感情表出の一つの手段であることを告げながら、ナンセンスやリズム、そして、ことばあそびの大切さを伝えている。
ことばを通して人間のあり方を考えることや人間関係を築くことの大切さをさり気なく伝えている。
 また、点字の紹介も丁寧だ。
 私たちが生きているのと同じようにことばも生きている。
 だから、ことばには体と心と全てをかけて向かわなくてはならない。ことばは人間が生きていく上で、とても大切なものなのだ。
 そんなことを楽しく、分かりやすく教えてくれる一冊。谷川俊太郎氏による文章も安野光雅氏による挿絵も美しい。
 小学校1年生の教科書として用いるならば、先生と生徒の関係性が大きく問われるだろう。教える側の人間性が深く問われるだろう。その問いが教える側の大人に成熟を促すのではないだろうか。
 言語教育関係者のみならず、「母語」について、「ことば」について考える時にお勧めの一冊。

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信じるとは命をかけた選択  『銀のほのおの国』

 壁に飾られた剥製のトナカイ「はやて」が甦り、たかしとゆうこの兄妹が、壁の向こうの異世界にひきずりこまれ、北の荒野を駆け抜けるトナカイ「はやて」を追って旅立つ。
 無慈悲で残酷な青イヌの影におびえながら続く旅の途中で、ゆうこが青イヌの囚われの身になる。「はやて」のいるはるか北の山脈めざして困難な旅を続けるたかしは、ゆうこの身を案じながら、誰にも助けを求めることができない結界状態に向き合い、自らの判断を要求され、生存の厳しさ(困難な状況と荒野の掟)の中で、自らの行為の選択を余儀なくされ、何を信じるかを問われる。
 盲目のウサギ銀の耳が歌い伝える「銀のほのおの国」—荒野に住む小さな動物たちが待ちのぞむ「トナカイ王国」の甦りをかけて、トナカイ軍と青イヌ軍が最後の戦いのときを迎えることに・・・。

 同著を大人になって初めて読んだ。
 40代という体力的にも能力的にもいろんな面での衰えが進む年代を生きながら、これまでの人生を振り返り、自分が断念せざるを得なかったことに対する負い目や無力感、そして、これからの人生で何ができるのだろうかという問いに対し、自らの限界に向き合う日々である。自分自身の人生の選択を良しとして、否定的な感情をいかに次なる人生のよりよい選択に向けるか。まさに、ツンドラを歩むような心理状況の中で、『銀のほのおの国』と出会った。

 この物語の主人公である兄妹のたかしとゆうこが送り込まれた壁の向こうの世界の出来事を通して、命をかけた選択や苦悩には必ず答えが与えられるということを確信させられたような気がする。そして、どんなに否定的な感情に満ち、エネルギーが枯渇しているかに見える状況にあっても、人間には次なるステップを歩み始める銀色の炎のような揺らめきがあり、生きてゆけるものだということを教えられたような気がする。
 『銀のほのおの国』を読み終えて、人生の選択には常に厳しさが伴うが、自分が信じる道を歩めば、それでよいのだという思いを、今、密かにかみ締めている。

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ホロコーストを若い世代に伝える秀逸の物語  『ジャック・デロシュの日記』

  第二次世界大戦から半世紀以上が過ぎ、ホロコーストや原爆という歴史上類を見ない惨事を生き抜いた人々が高齢になり、この世を去ってゆく。人間の歴史の暗部であり、恥部でもあるホロコーストを後の世代にどのように伝えていったらいいのか。
 ホロコーストに関する名著としては、フランクル博士の『夜と霧』(みすず書房)があり、児童書においては(ハンス・ペーター・リヒター著)『あのころはフリードリヒがいた』(岩波書店)、YA向け作品では(アンネ・フランク著)『アンネの日記』(文藝春秋(ヘルガ・シュナイダー著)『黙って行かせて』(新潮社)があり、ホロコーストをめぐる底知れぬ恐ろしさが語られているが、人生の危機に瀕した時に読むと不思議と心が救われる。
 新作を期待していた矢先、海外で14もの文学賞を受賞した『ジャック・デロシュの日記 —隠されたホロコースト』に出会った。
 物語は、「今日、また食べ物を吐いた。でもこれが最後だ。」という主人公エマの言葉に始まり、同じ言葉で終わる。主人公であるエマ・ラシュナルは、17歳。祖母マムーシュカのことが大好きで、心から尊敬していたが、祖母の死後、祖母の部屋で古い日記を見つけたことで、祖父母にまつわる恐ろしい事実を知り、摂食障害が日ごとに悪化していくことに・・・。
 その古い日記は、ポーランドのゾビブルという収容所でユダヤ人の「処理」にかかわっていた青年ジャック・デロシュの日記。読む権利などないと思いつつ、どうしようもなく惹きつけられて開いてしまった日記には、ナチの武装SS、ヒトラー、ユダヤ人の隔離、排除、強制退去、絶滅収容所、鉄条網、監視塔、ガス室、エヴァ・ヒルシュバウムとその息子シモン・・・。
 嘔吐と過食を繰り返し、身も心もぼろぼろになりながら、エマはジャック・デロシュの日記を読み続けた。まるで、日記の中の出来事が、自分の人生の一部となってしまったかのように、エマの人生の記憶と重なってゆく。
 13歳という思春期の入り口でダイエットを思い立ったエマが、自分の無と向き合い、無を消化するために、ますます食べることへの嫌悪感を抱き、食べないということを通して、自分を隔離することを覚えていく。食べないことは、自分にとってのゲットーなのだ。
 日記を繰り返し読むうちに、偶然、表紙を補強している厚紙をはがして見た写真にエヴァ・ヒルシュバウムの名が記されていた。そして、裏表紙をはがして見たジャック・デロシュの写真にエマは正気を失う。生死をさまよった末に、エマが「今日、また食べ物を吐いた。でもこれが最後だ。」と言う。そのエマが最後に選択した行動とは・・・。
 摂食障害とホロコーストの歴史と、何の関わりがあるのかと問われれば、単純な答えは出ないであろうが、その一つは、人間という存在の虚無、もしくは、ブラックホールではないだろうか。
 ホロコーストの歴史と祖父母の関わりを知った主人公エマが摂食障害を悪化させてゆく過程は、人間の歴史の暗部と自らの暗部を知る過程と重なる。エマの摂食障害によるおぞましい心身の衰弱を目の当たりにして、読者はひるむであろうが、ホロコーストとは、それ程の過程を経なければ知り得ないのかもしれない。
 エマの選択をどのように受けとめるのか。それは、作者から読者への問題提起ではないだろうか。衝撃的な問いを突き付けられ、読者は自ずとホロコーストについて考え続けることを余儀なくされる。ホロコーストを若い世代に伝える秀逸の新作物語として、高学年以上の子どもたち、そして、大人の読者にお勧めしたい。

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壮大なアラスカの自然や動物、植物たちを写した写真の合間に、心の奥底まで響くような言葉がちりばめられているエッセイ集ーこれからの世界を担う青年たちにお勧めの一冊 『ぼくの出会ったアラスカ 』

星野道夫さんが撮影した写真と、1985年〜1997年に発表したエッセイにより構成された文庫本。星野さんのアラスカとの出会いを中心に構成されている。
 
 「物質的な富を求め、テレビに浸り、本当の世界に触れようとしない多くの人々を理解できなかったという」若い女性のウイロー。
 「風のようにひょうひょうとして、まったく陽気な男なのに、彼の美しい視線はいつも相手の心の奥底を優しく見透かしていた。その美しさはある深い闇を超えてきたまなざしでもある。」ベトナムの帰還兵であるウィリー。
 星野さんの語るアラスカの若者を通して、自分がいかに薄っぺらい世界で生きているかを認識させられた。物質的な富こそ求めないし、テレビにも浸らないが、本当の世界に触れようとしない多くの人の一人である自分の姿が浮き彫りにされる。そして、深い闇を避けて生きている自分を思った。

 「木も 岩も 風さえも 魂をもって、じっと人間を見据えている」というインディアンの神話の一節が引用されている。
 今、生きている環境に居心地の悪さを感じるのは、木や岩のような魂をもって、じっと見据えてくれる存在が乏しいからではないだろうか。

 「行く先が何も見えぬ時代という荒海の中で、新しい舵を取るたくさんの人々が生まれているはずである。アラスカを旅し、そんな人々に会ってゆきたい。」と語る星野道夫さんの言葉に応え得る人々が日本に何人いるのであろうか。

 壮大なアラスカの自然や動物、植物たちを写した写真の合間に、心の奥底まで響くような言葉がちりばめられているエッセイ集、これからの世界を担う青年たちにお勧めの一冊。

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『地球交響曲』への理解を深めるために、お勧めのエッセイ集  『地球をつつむ風のように』

 『地球交響曲』の上映会のポスターを目にするようになって10数年が過ぎ、ようやく2005年末に第四番を観ることができた。まさに、これぞ私が体の、また、心の奥底から求めていたメッセージではないかと思える出会いだった。
 もっと地球交響曲について知りたいとの思いから、監督の著書を読むことにした。最初に読んだのが本書である。「交響曲を奏でる魂の友へ」、「子供たちに伝えたいこと」、「風の原点を見つめて」の三章よりなるエッセイ集。『地球交響曲 第四番』の完成を前に刊行されている。
 冒頭に『地球交響曲』とは、「太陽系の第三惑星である地球は、それ自体が一つの大きな生命体としての仕組みをもっており、我々人類はもちろんのこと、動物も虫も草も木も風も水も岩もすべてが有機的につながった大きな生命として、三十五億年の歳月を行き続けている。」というイギリスの物理学者ジェームズ・ラブロック博士のガイア理論に込められている「我々は地球の大きな生命の一部として生かされている」という謙虚な気持ちへの共感が原点となり、1989年から龍村仁監督により撮り始められた映画であることが述べられている。
 『地球交響曲』というタイトルには、「スピリチュアル・ドキュメンタリー」という造語が監督により付されているが、「スピリチュアル」という言葉は、「二十一世紀を迎えようとする今、科学の進歩がもたらしてくれる恩恵を充分に知り、世界を科学的・唯物的に理解する方法を身につけたうえで、なおかつ、そのような方法ではとらえきれない何か宇宙的な、あるいは超自然的な見えない力の存在に気づきはじめた人々の魂のあり方」という意味で用いられている。つまり、『地球交響曲』とは、世界中の「スピリチュアル」な体験をもつ人々のメッセージをガイア理論を原点としてオムニバス風につづった映画であると言える。

 「交響曲を奏でる魂の友へ」の章では、『地球交響曲第三番』に登場を予定していた写真家・星野道夫氏の不慮の死に対する友人達の思いと監督の思いが交錯するように語られていて印象深い。「子供たちに伝えたいこと」の章では、自らの子ども時代を振り返りながら、人間が本来あるべき姿や教育への思いが語られている。ダライ・ラマをめぐるチベットの子ども達の「愛されている確信」が印象に残った。「風の原点を見つめて」では、NHKのディレクターを免職になるまでの過程と『地球交響曲』への思いが誠実につづられている。

 柔軟な心と鋭敏な感性を磨き、自分の理解をはるかに超えた存在からの声に耳を傾けている監督の生き様に心惹かれる。「複雑な人間関係の喜び、恐れ、悲しみとはまったく異なる次元で人は何か大きな力に生かされているのだ」という思いを幼い頃の日向ぼっこの中で感じた監督は、そのことを『地球交響曲』を通して、体を張って伝え続けている。
 『地球交響曲』の美しい映像に込められたメッセージが、押し付けがましくなく、読者である私たちの心に心地良い風として感じられた。『地球交響曲』への理解を深めるために、お勧めのエッセイ集。

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2009年1月29日 (木)

写真家・星野道夫の心の旅 天職を得るために・・・『星野道夫物語』

 アラスカの自然と動植物を慈しみカメラに収め、エッセイを書いた星野道夫は、1996年8月8日、ロシアのカムチャッカで取材中にヒグマに襲われてこの世を去った。享年43歳。

 本著の作者である国松俊英は星野道夫を写真や著作物を通してしか知らないという。星野道夫を巡る友人、恩師、編集者、ご両親、直子夫人へのインタビューを重ねて書き上げたノンフィクション。幼少時に遡る様々なエピソードを通して、古本屋で偶然見つけたアラスカの写真集に心惹かれて、シュシュマレフという地名をよすがに手紙を書いた青年星野道夫が動物写真家星野道夫になるまでの歩みを語る。
 星野道夫を非凡な動物写真家&エッセイスト・星野道夫たらしめたものが明かされている。読み終えた時、天職という言葉を思った。一人の人間が天職を得るまでのひたすらな思いが感じられた。
 直子夫人の「夫、星野道夫の思い出」の中に引用されている道夫氏からの手紙の「自分の一生の中で何をやりたいのか。そのことを見つけられるということはとても幸せなことだと思います。あとはその気持ちを育ててゆくことが大切です。育ててゆくということは勉強してゆくことで、本を読んだり、人に会ったり・・・その結果、自分の好きなことをもっともっと好きになってゆくことだと思います。」という言葉が心に残る。

 冒頭のアラスカの写真が美しく、物語本文中に引用されている星野の言葉がきらめいている。天職を得るために必要なもの、そして、天職を全うするために必要なものが何であるのかを考えさせられた一冊である。

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Don't be afraid to speak about spirits! 『地球交響曲第三番 魂の旅』

 地球交響曲は、ジェームズ・ラブロック博士のガイア理論を原点として、世界中のスピリチュアルな体験をもつ人々のメッセージをオムニバス風につづった映画です。(引用:龍村仁著「地球をつつむ風のように」サンマーク出版)その「第三番」の撮影開始を十日後に控えていた1996年8月8日、重要な出演者となるはずであった星野道夫氏がロシアのカムチャッカで熊に襲われて、この世を去りました。
 三年前の「第二番」の撮影中には、出演を承諾してくれていたF1レーサーのアイルトン・セナが不慮の事故でこの世を去っています。二度目の映画撮影の危機に見舞われ、著者が監督として、一人の人間として、どれほどのショックを受けたのかは計り知れません。
 「人生とは、なにかを計画している時に起きてしまう別の出来事のことをいう」と言うアラスカ初の女性ブッシュパイロットで、星野道夫氏の友人であるシリア・ハンターの言葉が「第三番」を象徴しているように思えます。
 その危機を乗り越えて、著者は「見えない星野道夫を撮る」「聞こえない星野道夫の声を聞く」というドキュメンタリー手法では出来ないことへ踏み出す決意をしました。「私たちの中に眠っている一万年前の記憶を取り戻し二十一世紀に通じる神話を築こう」という星野道夫氏との約束を果たすために。
 「第三番」製作にまつわるエピソードにとどまらず、一つ一つの出来事を現実的な事象から魂のレベルまで深く掘り下げて語る渾身のエッセイ集です。星野道夫氏の死を著者がスピリチュアルな体験として乗り越えてゆく日々が臨場感あふれる言葉で綴られていて、一語一語噛み締めるように読みました。

 神話の語り部ボブを始め、二十世紀最大の宇宙物理学者のひとりであるフリーマン・ダイソンやケチカンの熊の一族のウイリー・ジャクソンなど星野道夫氏を巡る人々と出会いながら、天河大弁財天社、カナダ・ハンソン島、アラスカ・フェアバンクス、ハワイ…そして三内丸山遺跡へと旅を続けます。それは、著者の「自分自身の内に実在する“魂”、あるいは五千年〜一万年前の“記憶”」を遡る旅でもありました。
 著者は、二十一世紀を「私たちひとりひとりの「魂の進化」が極めて現実的に求められている時代だ。」と述べています。“Don’t be afraid to speak about spirits!”というボブ・サムの言葉や「至福の喜びは、深い悲しみと共にある」というビル・フラーの言葉など、星野道夫氏の著作からの引用も含めて、星野道夫氏を巡り、著者と出会った人々の洞察に満ちた言葉が心に沁みます。一人一人が人生をかけて語った言葉だからこそ、心に深く訴えかけるのではないかと思いました。

 「自分のいのちは、自分のものであると同時に、種を超え、時を超えて連綿と続く大きないのちの繋がりの中に生かされている」という当たり前のことを忘れて生きている自分に気づかされました。目に見えない魂の世界がリアルに感じられ、先行き不安な世の中を生きてゆく勇気が与えられるエッセイ集です。

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2009年1月28日 (水)

思い出の絵本 No. 7 源平絵巻物語全10巻

 赤羽末吉さんの絵本のすばらしさを教えてくれたのは、二人の子ども達でした。たまたま保育園の図書コーナーから娘が借りてきた『ほうまんの池のカッパ』(銀河社)という絵本を当時5歳の娘と生後6ヶ月の息子に読み聞かせると、滅多に笑わない赤ん坊だった息子が声を立てて笑い、知的な障害を抱えている娘も一緒に笑いながら最後まで聞いてくれました。以来、何度繰り返して読んだことでしょう。
 

 源平絵巻物語全10巻(偕成社)も幼い息子が見つけてくれた絵本です。「ママ、ほうまんの池のカッパの人の絵だよ。読んで」と言います。今西祐行さんの語りと日本画家である赤羽末吉さんの絵が見事に調和した現代のすばらしい絵巻物語です。

 赤羽末吉さんの美しい絵と今西祐行さんの誠実な語りを通して、お子さんと一緒に義経の生涯を辿ってみませんか。

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障害をテーマとした作品 ~ブログを再開~

 今日は、過去のレビューを7件、ブログに更新しました。ブログを閉じる時、一瞬の操作で全ての記事が削除されましたが、こうして再入力するという作業には時間と根気を要します。障害をテーマとした絵本や書籍のレビューの一つ一つを読み直し、書いた当時の自分の思いを振り返っています。

 過不足のない言葉でレビューを書くことは叶いませんが、私が最も感動した障害をテーマとした作品『ぼくのお姉さん』(丘修三著)のレビューをいつか書いてみたいと思っています。

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ADHDという障害をとても分かりやすく表現した絵本 『オチツケオチツケこうたオチツケ いのちのえほん 』

 絵本の主人公のこうた君は、ADHDという病気です。日本語では注意欠陥多動性障害と呼ばれています。一般的に知的機能の発達には遅れがないと言われていますが、周囲にいる人から理解が得にくい障害のひとつだと思います。
 私の娘は、ADHDではありませんが、点頭てんかんという重いてんかんによる知的機能の障害を伴っていますので、娘に何か問題とされる行動が生じた時、常に、障害による問題行動なのか、単なるわがままによる問題行動なのかを問いながら、娘と共に生きてきました。
 「障害」か「わがまま」かの判断は、常に慎重に行わなくてはなりません。専門の医師やカウンセラーによるアドバイスを必要とする場合や人間としての直感による場合など様々ですが、周囲の人から理解を得ることの難しさを痛感しています。

 こうた君は、さとる君もりえちゃんも大好き。落ち着かなくてはならないことも、順番を守らなくてはならないこともちゃんとわかっているのに、そうできないのがこうた君です。
 「わがまま」に見えてしまうこうた君の行動が具体的に描かれ、こうた君の頭の中、こうた君の心の動きが目に見えるように絵本に描かれています。
 学校の先生やこうた君のお母さんの困り果てた様子も…。
 こうた君のADHDという障害を病院の先生は、車にたとえて、こうた君にもお母さんにもわかりやすく説明しています。病院の先生の「おかあさん ほんとうに よく がんばってきましたね」と言う言葉に、思わずほろりと涙が出てしまいました。こうた君のお母さんのご苦労が身に沁みて感じられるからです。

 障害とは、決して特別なものではありません。人間が動物である限り避けて通れないものです。理解と必要な配慮さえ得られれば、共によりよく生きてゆくことができることを信じます。こうた君のようなお子さんへの理解が少しでも広がってゆくことを願っています。
 『オチツケオチツケこうたオチツケ こうたはADHD』は、ADHDという障害をとても分かりやすく表現した絵本だと思います。一人でも多くの人に読んで欲しい絵本です。

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ベンとベンを取り巻く人々を語ることを通して「アスペルガー症候群」への理解を促す物語

 主人公のベンは、算数と理科がばつぐんにできる頭のいい男の子。学校のチェス大会ではいつも優勝、コンピューターにもかなり詳しい。それなのに、いつも先生に叱られてばかり。どうして先生は、いつもわかりにくいいい方をするんだろう? どうしてぼくは、いつもおこられてばっかりいるんだろう? 学校なんかだいきらいだ!と言うベン。

 ベンは、校庭のごみ拾いをしている最中に青いびんを見つけました。青いびんからすうっと立ち上がってくる白い煙。「きっとこれ、魔法のびんだよ。」と言うアンディ、「やったー!」と喜ぶベン。アンディは、ベンの幼い頃からの仲良し、話の途中で、突然話題を変えたり、奇妙な行動をとるベンをあるがままに受けとめています。二人だけにしか見えない白い煙が、次々と二人の願いを叶えてくれることに…。

 ベンのパパが宝くじで60万ドルを当てました。ベンは、願い事の一つである新しいコンピューターを手に入れることができそうです。だけど、パパが買おうとしている新しい家は、いやです。ベンは新しいものが大の苦手です。声のかぎりにわめいたり、全身の力を振り絞って手をばたつかせたりします。そんなベンを静かに見守るおばあちゃん。

 幼い頃に母親を亡くしたベンは、父親と祖母に育てられています。おばあちゃんは、日常生活に困難を抱えているベンを精神分析医に診てもらうことを勧めました。パパも宝くじの60万ドルがあるからいいさと渋々従うことに…。そして、ベンは、専門医によって、「アスペルガー症候群」と診断されました。
 他人と関わることが得意でないことや他の人が何を考えているのか、どう感じているのか、上手く理解できないこと、そして、自分が考えていることや感じていることを言葉にすることが苦手であること、しばしば、あるひとつの事柄に興味を持ち、その分野に関しては、天才的な素質があること、そのことについて、何度も同じ話を人にしてきかせるということなど、アスペルガー症候群についての説明がなされると、「コンピューター」と同時に叫ぶパパとおばあちゃん。

 ベンの新しい家にはパパとおばあちゃんともう一人、ベンの家族が増えることになりそうです。ベンは新しい家に、上手くなじむことができるのでしょうか。そして、新しい家族を受け入れることができるのでしょうか。
 ベンを取り巻くパパとおばあちゃん、親友のアンディ、学校の先生、クラスメートなどの関わりを通して、アスペルガー症候群への理解を促す物語です。ベンが見つけたふしぎな青いびんが、あなたを心温まるファンタジーの世界へと誘ってくれるでしょう。

 アスペルガー症候群は、医学の進歩によって近年見いだされました。安易に「アスペルガー症候群」だと判断することは控えてください。アスペルガー症候群は、専門家による診断が必要な疾患です。薬ではなおせない、そして、一生付き合ってゆかなければならない脳の疾患です。
 ベンのような子ども達が生きてゆくためには周囲の理解と配慮が必要です。ベンのパパは、「助けが必要」という言い方をしています。
 アスペルガー症候群への理解が少しずつ確実に広がることを通して、ベンのような子ども達にとって生きやすい社会が築かれてゆくことを願ってやみません。できるだけ多くの方々にお子さんと一緒に読んで欲しい本の一冊です。

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右手の障害を受け入れて、前向きに生きるさっちゃんの姿が健気です。  『さっちゃんの まほうのて』

 さっちゃんの右手には5本の指がありません。さっちゃんのような子ども達は、医学的に「先天性四肢障害児」と呼ばれています。さっちゃんは幼稚園のすみれぐみ、もうすぐお姉ちゃんになります。
 

 ある日、幼稚園のままごと遊びで「おかあさん」になりたいと言ったさっちゃんに、友達のまりちゃんが「さっちゃんは おかあさんには なれないよ! だって、てのないおかあさんなんて へんだもん。」と言います。まわりにいた友達も「そうよ!」「へんだよ!」と言いました。さっちゃんは深く傷つき、幼稚園に行けなくなってしまいました。
 

 さっちゃんの手の障害を子ども達はどのように見詰めているのでしょうか。また、さっちゃんは、どのように自分の障害を受け入れてゆくのでしょうか。

 絵本ができあがるまでに5年以上の年月がかかったそうです。丹精を込めて描かれた田畑精一さんのイラストと身を絞るように綴られた文章が心の奥底に伝わってきます。
弟が生まれてお姉ちゃんになったさっちゃんの立ち直ってゆく姿が、生き生きと描かれています。この絵本を読んだら、誰もがさっちゃんを好きになり、心の底から応援したくなるでしょう。

 「おかあさんのだいすきな さちこの かわいい かわいいて なんだから・・・。」というお母さん。「さちこのては まるで まほうのてだね。」というお父さん。さっちゃんに「障害」を語るご両親の言葉のひとつひとつが心に残ります。人間である以上誰もが心身に障害を負う可能性を秘めています。手に障害を抱えたさっちゃんの心の葛藤と成長、そして、さっちゃんを見守るご両親の気持ちを多くの人に知っていただきたいと思いました。

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「こころはきもちでいっぱい」〜心にかぜをひきそうな時にいかがですか? 『ぼくのきもち』

 原田大助さんは、26歳。
 石川県立錦城養護学校中等部で、教諭の山元加津子さんに出会い、詩や絵の創作を始めました。この絵本は原田大助さんが15歳の時に描いた詩と絵です。

sadイライラするとな おなかのなかの 深いとこがな 黒くなって かたくなって どんどんと きたなくなる気がする


happy01もうやめや やめとこ みんな笑ってる方がええにきまってるやんか

coldsweats01さびしいときは 心のかぜです。せきしてはなかんで やさしくして ねてたら 一日でなおる

 あとがきに、「僕は、僕の気持ちをいつも山もっちゃんと葉書にします。うれしいときもhappy01、悲しいときもweep、怒っているときもangry、僕のこころはきもちでいっぱいなので、葉書に書くと、山もっちゃんも喜ぶし、僕もうれしいので、よかったことです。」という言葉がありますが、私たちの日常の生活の中でも「こころはきもちでいっぱい」のはずなのに、そのきもちに蓋をするように生きている自分を感じました。多感だった思春期の頃を思い出して、自分の気持ちを日記帳に綴ってみようかな・・・と思いました。

 黄色の表紙を開くと、赤い文字で書かれた詩と黒い線で描かれた絵にほんわかとした気持ちになります。あなたも心にかぜを引きそうな時にいかがですか? 産経児童出版文化賞(第54回)作品です。

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車いすに乗った女の子アンナの初めてのおつかい 『わたしの足は車いす』

 両足が不自由な女の子アンナが主人公の絵本です。
 アンナは、両足が不自由ですが、一人で起きて、一人で着替えをします。両足が思うように動かないので、ゆっくり着替えます。大変だけど、いろんなことを一人でやります。忙しいお母さんのお手伝いもします。

 学校が休みの日の朝、「スーパーで、リンゴとミルクを買ってきてもらいたいのよ。」とアンナはお母さんから、おつかいを頼まれました。アンナにとって、初めてのおつかいです。
 アンナは、家の中でも、外でも、車いすに乗っています。町に出ると、車いすに乗ったアンナをじろじろ見る人がたくさんいます。町の人たちの視線が気になるアンナです。
 お母さんと一緒に歩いている小さな女の子や「でぶっちょ」とからかわれている男の子ジギー、公園のベンチで休んでいるおじいさんとおばあさん、スーパーの店員さん、そして、おまわりさん…アンナが町で出会った人々を通して、アンナのような子ども達にとって不要な親切、気になる視線、本当に必要な手助け、設置して欲しいスロープや段差のない歩道などが、具体的に語られています。素敵なイラストで描かれています。

 アンナは、何度も自分が「ふつう」だと主張しますが、でぶっちょのジギーは、「ぼくだち、ちょっとだけふつうとはちがうんだよ。だけど、ちがっていてもいいのさ。ちがってるのって、ほんとうは、とくべつなことなんだから。」と言います。この絵本を読んだ皆さんは、アンナやジギーをどのように感じるでしょうか。
 
 アンナの初めてのおつかいは、はじめはどきどきでしたが、すっかり元気になって、家に帰りました。最後のページのアンナの表情を見ると、皆さん、ほっとするでしょう。しかし、現実の世界では、アンナのように足が不自由な子ども達は、もっとたくさんの試練に出会いながら、生きています。アンナのような子ども達にとって、居心地の良い社会を築きあげてゆくのは、わたし達一人一人の理解ではないでしょうか。一人でも多くの人に読んで欲しい絵本です。

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障害を知ることは人間の本質を知ること  『障害を知る本 1 障害と私たちの社会 』

 私たちの生きている街には、目の不自由な人、車椅子の人など、さまざまな障害を持った人たちがいます。目の不自由な人は白い杖を持って歩いていたり、盲導犬と呼ばれる訓練された犬と一緒に歩いたりしています。身体に障害を抱えていて歩行が困難な人は、車椅子に乗って、町に出かけています。しかし、目に見えない障害を抱えている人もたくさん街を歩いています。

 「子どものためのバリアフリーブック 障害を知る本」は現在11巻まで刊行されています。その一巻目は、「障害と私たちの社会」です。
 

 「街にはバリアがいっぱい」という見出しから、「障害者は5億人 10人に1人」「障害ってなに?」「どうして障害になるの?」と続き、その見出しごとに、分かりやすい解説と写真やイラストが添えられています。障害への興味を誘い、障害とは何か、また、その原因、障害者の歴史、障害者の権利、障害者の学びの場、スポーツ、芸術が具体的なエピソードとともに語られ、障害者が社会の一員としてよりよく生きてゆくための理解を促しています。

 子どものためのバリアフリーブックとなっていますが、まず、大人が読み、そして、子ども達と共に読むのに適した本ではないでしょうか。文章は短く簡潔に綴られていますが、人間の本質へと迫る奥深い内容となっています。

 あなたも、障害を持つ人たちが社会の中で不自由なく生活するにはどうすればいいかを考えてみませんか。障害者を通して社会を見つめる視点は、今後の社会の構築のために必要不可欠ではないかと思われます。お子さんと一緒に、読む本としてお勧めします。

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2009年1月27日 (火)

子どもの人生にとって、いかに絵本が大切な存在であるかを実証する記念碑的一冊 『クシュラの奇跡』

 『クシュラの奇跡−140冊の絵本との日々』は、染色体の異常により複雑で重い障害を抱えたニュージーランドの女の子クシュラが生まれてから3歳9ヶ月になるまでの成長の記録とその間にクシュラが出会った140冊の絵本の物語です。腎臓や心臓、視力、身体的な発育の遅れと、生後間もなく次々と異常が発見され、絶望的な日々を送っていたクシュラとクシュラの両親に一条の光を与えたのが絵本の読み聞かせでした。昼夜分かたず眠れないクシュラを膝に抱きながら、母親が始めた絵本の読み聞かせに、クシュラは強い関心を示し、その後、医学的な診断を超えた成長を遂げることになります。
 

 日本で翻訳出版されたのは1984年。当時、名作絵本の手引書として、また、子どもの成長における読み聞かせの意義を伝える本として高い評価を得ました。

 私が同著と出会ったのは、生後10ヶ月の長女が点頭てんかんと診断された1986年のことでした。悲嘆にくれる日々に、同著と出会い、深い感銘を受けました。

 22年の歳月を経て普及版が出版され、当時の自分と娘の姿と重ね合わせながら、再読しました。同著の特徴は、クシュラの発達の過程や、その過程において出会った絵本の発達段階における意義が、具体的に、かつ、実証的に、著者の抑制のきいた文体によって語られている点にあると思います。

 クシュラの母親のパトリシアによる膨大な量の緻密な成長記録(メモ)と著者の学問的な学び、そして、書店経営や読書教育の実践によって生み出された同著は、子どもの人生にとって、いかに本が大切な存在であるかを、また、幼少期における絵本の読み聞かせの果たす役割がいかに大きいかを力強い言葉で実証しています。

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死を前向きに捉え、子どもの心に届く言葉で語った美しい絵本 『水平線の向こうから』

 絵本『水平線の向こうから』を開くと、南の小さな島と海、そして、青空が一面に広がります。
 幼くして母親と死別した藍が、15年の歳月を経て、母親の生まれ故郷である南の島を恋人とともに訪れます。真っ青な海と透き通る青い空・・・母親との思い出の地を訪れ、大人になった藍の心に鮮明に甦る記憶、癌を患い長い闘病生活を経て、死期が迫った母親が、8歳の藍に語った死とは・・・。
 死は、その人の存在を消すのではなく、船が水平線の向こうに消えるように、見えなくなるだけ。
 8歳の少女・藍の心に届く言葉で、癌という病が、そして、やがて母親に訪れる死が語られています。15年前の藍の深い悲しみと現在の藍の幸せが交錯して、感動的な結末が訪れます。
 南の島の海、空、夕陽、そして、回想シーンを描く葉祥明氏のイラストが美しく、死というものが明るく浮き彫りにされています。絵本の原作者は、産婦人科の医師であり、鹿児島にてホスピス機能を備えた診療所「堂園メディカルハウス」を開業している堂園晴彦氏。絵本の中に、氏の「先立つ親が心残りのないように、そして子どもが愛する人の死から一日も早く立ち直り、前向きな人生を送れるように」との願いや「未来につながる死を教える物語書きたい」という思いが満ちています。
 人間である限り、生老病死には必ず向き合わなくてはなりません。自分の死、そして、愛する人やかけがえのない人の死にどのように向き合ったらよいのでしょう。それは、人生最大のテーマではないでしょうか。
 『水平線の向こうから』は、「死」というテーマに真正面から取り組み、子どもの心に届く言葉で、その意味を綴った絵本です。読み終えて本を閉じた時、得体の知れない感謝の気持ちに満たされて、無意識に祈りの手を組んでいました。「死を前向きに捉えながら生きていく」ことを学ぶことができる絵本ではないでしょうか。堂園晴彦氏の『それぞれの風景』(日本教文社)と併せて、お勧めします。

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愛の大切さを訴える心あたたまる物語 『赤い手袋の奇跡』

  老人ホームで余生を過ごしているサラは、クリスマスが来るたびに、自分の人生の節目となる言葉を書き記した12枚の紙飾りをツリーに吊るしながら、これまでの人生を振り返ることにしていた。とりわけ、サラに愛の奇跡を起こした自作の「サラの歌」のことを思い出す。

 今年は、サラにとって最期のクリスマスとなりそうだ。死の予感の中で、サラに自らの体験を伝えたい人物が現れた。若い介護士のベスだ。結婚生活に思い悩むベスに、サラは苦難の人生と愛の奇跡を語り始めた。

 「明日」「高望み」「興奮」「反抗」「暴露」「帰郷」「絶望」「切望」「機会」「勝利」「抱擁」「不変」という12枚の紙飾り、「サラの歌」、そして、赤い手袋・・・。

 信じる心を取り戻すのに、遅すぎることはない。
 正しい道にたどり着くのに、遅すぎることはない。
 愛を取り戻すのに、遅すぎることはない。
 もう一度やり直すのに、遅すぎることはない。
 
 「サラの歌」の最初と最後のフレーズだ。
 サラが語る愛の奇跡と愛を見出す秘密が、現在進行形のベスの家族の危機を救えるのか。そして、再び、愛の奇跡は起こるのか・・・。

 本書は、「ロサンゼルス・デイりー・ニュース」紙の記者を経て、作家となったカレン・キングズベリーの<赤い手袋の奇跡>シリーズ『赤い手袋の奇跡 ギデオンの贈りのの』『赤い手袋の奇跡 マギーの約束』に続く第三作である。
 信じる心と正しい道と愛ーわたしたちが見失いがちな大切なものを教えてくれる。たとえ、お金やモノに恵まれても、地位や名誉が与えられても、愛が無ければ、寂しい人生ではないだろうか。また、人が生きる原点は、愛すること、愛されることにあるのではないだろうか。愛の大切さを訴える心あたたまる物語だ。

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「障害者の性の介助」というテーマを通して、社会への問題提起をなす貴重な一冊 『セックスボランティア』

 医療・教育・福祉などの専門職でもなく、障害を抱えている当事者でもない著者が挑んだ「障害者の性の介助」に関するノンフィクションです。『週刊朝日』に連載された「週刊ノンフィクション劇場」をベースに更なる取材を重ねて、加筆後、単行本化されました。

 ボランティアとして障害者とセックスをする女性、障害者専門の風俗店、身障者への出張を行うホストクラブ、知的障害者のカップルへのセックスの指導、福祉施設の介護者によるマスターベーションの介助など、これまで知り得なかった障害者を取り巻く性の現実が、障害を抱えているカップルや当事者への取材を通して明らかにされています。

 私の娘は<点頭てんかん>という重い病を抱えて生まれてきました。「歩くこともしゃべることもままならないでしょう。」と告げられましたが、23歳になる娘は、知的な障害を抱えていても、演劇や水泳を続けながら、毎日元気に作業所に通っています。
 時おり、母親の私より充実した人生ではないかと思うことがありますが、性の問題になると娘がどのように感じているのか測り知れません。幼く無邪気なだけに、どのように感じているのだろうかと親のなす術もなく案じているばかりです。そんな現実を抱えているだけに、身につまされるような思いを味わいながら読み終えました。
 
 「障害者だってやっぱり、恋愛したい。性欲もある。」という現実を当事者の生の声を通して知らされ、あまりの生々しい感情とそれに対する社会の風当たりの厳しさに、胸がつかえるような思いを抱きました。
 この本を単行本化するにあたって作者が削ったであろう原稿の量を思います。ここに書かれていることは、その氷山の一角かもしれません。障害を抱えている娘の性というよりも、自分自身が日常生活レベルで無意識の領域に封じ込めている「性」に関して考えさせられました。そして、生は性という当たり前のことを再認識させられました。

 この本を3つの点で評価したいと思います。
 これまで表立って取り上げられたことのない「障害者の性の介助」というテーマに果敢に挑んでいる点、「性の介助」というテーマで、障害者の性の問題に切り込み、当事者でない一般の人々に分かりやすく訴えかけている点、そして、当事者への取材を重ね、障害者への性行為補助金制度を取り上げ、実際にオランダまで取材の足を運んでいるという点です。
 
 評価すると同時に、この本は、障害者の性に対する問題提起に過ぎないということも感じました。性の問題は個人差もありますし、すっきりと解消するような解決策がないという側面を孕んでいます。単にセンセーショナルな問題提起の本として終わらないためにも、著者に更なる取材とテーマへの深い洞察を望みたいと思います。
 
 取材を経て書かれた文章の行間に著者の心の置き所のあいまいさを感じてしまいました。著者に対して性体験の告白を望んでいる訳ではありません。性をテーマとする時、やはり自分がどんな性意識を抱えているのかという心の位置が定まっていないと問題に対する切り口が浅くなります。この本の物足りなさは、その点にあるのではないでしょうか。
 人間が生物である限り、障害という問題は避けて通れないものではないでしょうか。傍観者的な立場に留まらず、自分自身の問題として「障害」や「性」について、著者である河合香織さんにも、この本の多くの読者の方々にも考えていただきたいと感じました。障害者の置かれている性の現状から、今後の社会のあり方を問うという方向までテーマを深化させてゆくことが次作への著者の課題ではないでしょうか。
 障害者の性の介助を通して社会への問題提起をなす貴重な一冊としてお勧めします。

 

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どうにもならない悲しみに出会ったあなたにお薦めの絵本 『悲しい本』

 中年の男の滑稽な笑顔から始まる『悲しい本』。谷川俊太郎さんの翻訳だと知って手に取った。

 どうにもならない悲しみに出会った時、笑うしかないことを知ったのは人生の半ばを過ぎた頃だった。男の笑いに吸い込まれるように絵本を開くと、そこには、息子を失った父親の悲しみが綴られている。どうにもならない深い悲しみだろう。私が、まだ経験したことがない悲しみだ。

 「どこもかしこも悲しい。からだじゅうが、悲しい」という男。
 男の悲しむ顔が大きく描かれている。「どうすることもできない」悲しみに出会った時の男の顔。息子の思い出、自分の亡き母親との思い出が続いて描かれている。
 深い悲しみは誰にも語ることができないから、描くしかないのだろう。喜びは共有できるが、悲しみは「ほかの誰のものでもない」。だから本人が語るしかないのだろう。マイケル・ローゼンの言葉とクェンティン・ブレイクの絵の絶妙なコラボレーションで、男の悲しみが表現されている。

 男は、悲しみをやり過ごす方法をあれこれと試してみる。悲しみは息子を失った悲しみだけではない。理由がわからない悲しみも訪れる。そして、男は悲しみを書くことにした。
「私は書く:
 悲しみはそこ
 深くて暗い
 ベッドの下の
 からっぽのそこ」
に始まる男の詩の翻訳が見事だ。体中の力を振り絞って、世界中の人の「どうにもならない悲しみ」を代弁したような言葉だ。

 悲しみは、不思議だと思う。喜びは寄せては返す波のように、訪れてはすぐに去ってゆく。しかし、悲しみは、心にも体にもいつの間にか棲み付いている。一つの悲しみに慣れると、また別の悲しみが心と体のどこかしらに宿る。

 男が最後に手にした蝋燭の炎。
 悲しみは、自分でしっかり見つめるしかないのだろう。悲しみは自分だけのものだから、そして、悲しみを通して自分の人生が見えてくるかもしれないから。
 どうにもならない悲しみに出会ったあなたに深い慰めを与えてくれる希少な絵本としてお勧めの一冊。

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思い出の絵本 No.5 『ほうまんの池のかっぱ』

  幼い娘が通所訓練施設の図書コーナーから借りてきた思い出の絵本です。点頭てんかんという重い病を抱えて生まれてきた娘には知的なハンディがあります。乳幼児期は、抗てんかん剤の影響で、眠っていることが多く、起きている時もぼーっとしていました。そんな娘に何か楽しみを見つけてあげたいと思って始めたのが絵本の読み聞かせでした。

 ノンタンのシリーズに始まり、「ぐりとぐら」のシリーズ絵本…それからの展開が中々できない娘に変化が訪れたのは、隣接する公立の保育園との統合保育が行われている通所訓練施設に通い始めたのがきっかけでした。
 同じ年齢の健康な子ども達と接する中で、絵本や紙芝居の読み聞かせを受け、楽しみを共有する内に、友達の真似をして、自分で絵本を借りてくるようになったことです。初めて借りて来た絵本は、『はじめてのおつかい』という絵本と思っていましたが、当時つけていた「読み聞かせのメモ」を辿ると初めて借りて来た絵本は、『ほうまんの池のカッパ』でした。(以前、思い出の絵本ーNo,3で、で初めて借りて来た絵本が『はじめてのおつかい』だったと書いていましたが、当時のメモを辿ると私の記憶違いであることに気がつきました。これからは、思い出の絵本は、当時のメモを見ながら描き続けたいと思います。)

02495519   表紙の絵の大きな男は、とらまつ。種子島一の力持ち、力も強いし、釣りも上手と自分のことを得意気に自慢しています。
 とらまつが、ある日、ほうまんの池で、釣りの魚をおかしな手に奪われます。「ワラビが あたまを だすように、ぬくりん、ぬくりんと、 おかしな てが たくさん はえて でた。」という具合に椋鳩十さんのオノマトペを生かした語りに、娘は魅了されたようです。当時、生後6ヶ月だった息子も声を立てて笑っています。
 「こらまあ、なんちゅうことだい。」とたまげて、ひっくりかえっているとらまつの姿が赤羽末吉さんによって、こっけいに描かれています。
 次の日に仕返しにゆくとらまつですが、ワラビのような手と思っていたのは、ほうまんの池に棲むカッパ達の手だったのです。10匹のカッパ達に、こっぴどく頭突きを食らうとらまつ…
 ごぼぼん、ごぼぼん、ぬくん、ぬくん、ぬくん…ほうまんの池のカッパ達が姿を現す時のオノマトペも子どもには面白く感じられるようです。 娘は、この絵本がよほど気に入ったようで、赤ん坊だった弟のことを「まつ」と呼ぶようになり、弟も「まつ」と呼ばれると返事をするようになりました。幼い姉と弟とのなつかしい思い出の一冊です。 

 種子島一の力持ちのとらまつとほうまんの池に棲むカッパ達のその後が少し不気味で、また愉快でもあります。椋鳩十さんの日本語のオノマトペを生かした民話調の語りと赤羽末吉さんの描くとらまつとカッパの愉快な姿が魅力の絵本です。国際アンデルセン賞優良作品賞、小学館絵画賞(第24回)受賞作品です。

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思い出の絵本 No.4 『ぐりとぐらのおきゃくさま』

  のねずみのぐりとぐらが、雪合戦をしていて、大きな足跡を見つけました。二匹は、その大きな足跡を辿ってゆきます。足跡の行きつく先は、ぐりとぐらのお家でした。
 それからが、楽しみです。中にいたのは、誰でしょう。そして、どんな出来事が待ち受けているのでしょう。とっても美味しいお話です。

  わが家の子ども達が幼い頃、何度も読み聞かせをした絵本です。子ども達は、ぐりとぐらと一緒に大きな足跡を指でなぞっていました。足跡を見つめていると、子ども達の小さな指先がふっと浮かんできます。 
  子ども達は、それが分かっていながら、読み聞かせのたびに、まるで初めて出会うような表情で、同じ場面を見つめていました。保育園が休みの日に、『ぐりとぐらのおきゃくさま』を読み聞かせすると必ずぐりとぐらがいただいた美味しいものを、「ママ、作って。一緒に作ろう」という弟。「ねえね(おねえちゃん)も一緒に作ろうよ」と知的なハンディを抱えている姉を誘って、エプロンを取りに行きます。
 3人で作った美味しいもの、小さなエプロンをして、台に乗ってお手伝いをする幼い姉と弟のほほえましい思い出です。『ぐりとぐらのおきゃくさま』を信じることができた子ども達の幼い日の思い出は、母親の私にとっても大切な宝物です。

 『ぐりとぐらのおきゃくさま』に出会える子ども達は、幸せだと思います。雪景色が美しく、森の動物達が愉快な絵本、ご家族でクリスマスの夜にいかがでしょうか。

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思い出の絵本 No.3 『はじめてのおつかい』

  娘は点頭てんかんという重い病と知的なハンディを抱えて生まれてきました。抗てんかん剤の副作用で、昼間も眠っていることが多い乳幼児期でしたので、少しでも楽しいことを増やしてあげたいと思って始めたのが絵本の読み聞かせでした。ノンタンのシリーズ「ぐりとぐら」のシリーズがお気に入りでしたので、絵本が破れるほど読みました。

 5歳年下の弟が1歳になった時でした。保育園で読み聞かせをしてもらったことがきっかけとなったようで、娘が『はじめてのおつかい』を保育園の図書コーナーから借りて来ました。娘が、自分から進んで本を借りるということは、初めてのことでしたので、びっくりしました。保育園の年長組の時でした。
 ストーリーが長いし、言葉が多いので集中力が続くだろうかと心配しながら、読み聞かせをしましたが、1歳の弟も娘もにこにこ笑いながら、最後まで聞いてくれました。

 表紙のみいちゃんの笑顔がとってもすてきです。『はじめてのおつかい』の絵本をすぐに購入しました。毎日のように読み聞かせをしているうちに、しばらくすると、みいちゃんの言葉を娘がたどたどしい発音ながら、真似するようになりました。その言葉を聞いて、弟が笑っています。微笑ましい姉弟の関わりでした。
 林明子さんの絵は、絵そのものが、語りかけてくれるようです。『はじめてのおつかい』と出会って以来、言葉の理解が困難な娘にとって、絵本は言葉を覚えるために欠かせない存在となってゆきました。 
 
 『はじめてのおつかい』を読み続けて半年ほど過ぎた頃、夕方、豆腐屋さんのラッパが聞こえると、私が持っていたボウルとお金をくれるようにせがみました。娘にボウルとお金を渡すと、階段を降り、豆腐屋さんのバイクの前に並んで、自分の順番が来ると、大きな声で「おとーふ、くらさーい」と言いました。ベランダから、その姿を見ていて、うれしくなり、涙があふれてきました。10数年経て、絵本はぼろぼろになりましたが、娘にとっての「はじめてのおつかい」は、私にとっては、いつまでも朽ちない思い出です。 

 『はじめてのおつかい』は、言葉を獲得してゆく過程の幼い子ども達にとって、画期的な一冊ではないでしょうか。また、年齢に関係なく、みいちゃんと「はじめてのおつかい」の緊張と達成感を共にできる明るく楽しい絵本ではないでしょうか

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2009年1月25日 (日)

思い出の絵本 No.2 『ぐりとぐら』

 知的な障害を抱えた娘の笑顔が見たくて始めた読み聞かせでしたが、5歳年下の弟が生まれてからも育児が大変な中、毎晩欠かさず読み聞かせを続けました。朝昼晩と時間帯に関係なく、絵本を持って来て、膝の上にすわったら、いつでも読んであげました。
 もし、娘が知的な障害を抱えていなかったら、ここまで読んであげることができただろうか・・・とふと思います。happy01

 娘が二冊目に気に入った絵本は、『ぐりとぐら』でした。
以下は、福音館書店のホームページ、「みんなの広場」-ぐりとぐらの思い出に投稿した文章です。

歌うように読んだ絵本 『ぐりとぐら』
 

 『ぐりとぐら』は、知的な障がいを抱える娘が喜んだ2冊目の絵本です。娘は、点頭てんかんという癲癇の中でも最も重い病を患って生まれてきました。生後10ヶ月の時から抗てんかん薬を服用していますので、乳幼児期は眠っている時間が長く、起きているときもぼーっとしていました。 その娘が2歳の時に初めて反応したのが『あかんべノンタン』でした。それ以来、娘の喜ぶ表情を見たいためにすがるように始めた読み聞かせです。

 1年ほど経て、3歳になった娘に『ぐりとぐら』をよんであげました。すると、本当に嬉しそうに絵本を眺めていました。もう私もうれしくて、うれしくて、「ぐりとぐら」のシリーズを本が破れるほど読んであげました。
 どの本も言葉がリズミカルですので、歌うように読んであげました。notes 娘を膝に抱いて読んだ『ぐりとぐら』、幼かった頃の娘の体のぬくもりや絵本のぐりやぐらを触っている小さなてのひら・・・今でも、時々思い出して、ほんわかした気分に浸っています。
 その娘も23歳、養護学校の高等部を卒業して、福祉工房に勤めています。時々思い出したように、ぼろぼろになった『ぐりとぐら』を本棚から出して眺め、母親の私が口ずさんだメロディーをハミングしています。
 娘の笑顔を見たいがために始めた読み聞かせでしたが、自分の方が絵本や童話の世界にすっかりはまってしまいました。 音痴な私が歌うように読んだ思い出の一冊です。

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思い出の絵本 No.1 『あかんべノンタン』

 

 点頭てんかんという重い病と知的なハンディを抱えている娘が二歳半の時でした。通所訓練施設に通い始めた娘を家に連れて帰る途中、市民会館の前を通りかかった時、突然、娘が「あかんべ」という仕草をして笑い始めました。

 娘は、抗てんかん薬を服用しているため、反応も表情も乏しい子でした。 驚いて立ち止まると、そこには、こども劇場の看板があり、白い子猫の絵が描かれていました。娘はその猫に向かって、何度も「あかんべ」をして笑っています。子育てに不安でいっぱいの時でした。娘が自分から「あかんべ」をする姿を見て驚き、とにかくうれしかったことを思い出します。
 
 その猫が絵本の「あかんべノンタン」の主人公であることを翌日通所訓練施設の先生から聞かされました。出会った動物たちにノンタンが「あかんべ」をすると、その動物たちが皆驚いて、ひっくり返るという単純なストーリーですが、娘の喜ぶ姿が見たいあまりに、ノンタンの絵本をシリーズで買い揃え、娘に読み聞かせる日々が続きました。
 ノンタンに始まった絵本の読み聞かせは、その後、数え切れないほどの絵本に広がり、娘が19歳、息子が14歳になるまで続きました。息子から、「読み聞かせはいいよ」と言われた時はひどくショックを受けましたが、それも一つの成長かもしれません。

 最近、生意気な口をきき始めた息子と親子げんかをして、悲しいやら悔しいやらやり場のない気持ちで、息子に「あかんべ」をしました。「あかんべ」とやり返す息子、そして「あかんべ」と笑っている娘。心のどこかにしまわれていたノンタンが久しぶりに茶目っ気たっぷりで登場しました
 息子の心にも、娘の心にも、確かにノンタンが生きていることを感じさせられました。

 大人になってから絵本と出会った私は、何回も読み聞かせたはずの絵本のストーリーすら思い出せない有様ですが、十数年前、歩みののろい娘を引きずるように歩いていた私を明るい気持ちにしてくれたノンタンが、ふとした時に思い出されます。
 読み聞かせの日々をなつかしむように絵本を読み直している現在、まず一番に思い出されるのが『あかんべノンタン』です。
 心のどこかにしまわれて、忘れることができるからこそ絵本は心を元気にしてくれるのかもしれません。

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