<一般書>

2011年7月27日 (水)

『発達障害 母たちの奮闘記』~無理解の壁に挑み、発達障害の本質的な理解を促す良書 

発達障害 母たちの奮闘記 (平凡社新書) Book 発達障害 母たちの奮闘記 (平凡社新書)

著者:山下 成司
販売元:平凡社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 もし、電車の中で、唐突に中年の女性の髪の毛に触れる少年がいたら、あなたはどのように感じますか? また、もし、学校の近くの畑で芋をぜんぶ掘り返している少年を見かけたら…? 
 少年の奇異で突飛な行動に驚き、どう対処してよいのか分からないというのが世間一般の反応ではないだろうか。この少年のように、外見的には「普通」であっても、社会生活、特に他者とのコミュニケーションに支障を来す障害、それが発達障害だ。

 近年、学問的な研究が進み、2005年の発達障害者支援法の施行をきっかけに、社会的な認知が始まったが、軽度精神発達遅滞、広汎性発達障害(PDD)、学習障害(LD)、注意欠陥・多動性障害(ADHD)等の各種別の特性、また、それぞれの置かれている環境や個性など複雑に絡み合っているため、一般社会には本質的な理解が及ばない。
 発達障害は、その判断が難しく、障害の認知が遅れがちだ。家族も本人もその障害に困惑し、支援のあり方が想起しにくいため、周囲からの適切な支援を受けることも叶わない。そのため、本人に自己否定感や自尊心の低下という二次障害が生じ、家族にも、自分の子育てのせいで子どもがこうなったのでは?という自責の念が生じる。本人や家族が精神的に追い詰められる前に、早期の認知や周囲の理解が切実に求められている障害だ。

 本書の著者である山下成司氏は、フリーランスのイラストレーターの仕事のかたわら、私設学校で18年間、発達障害児教育の現場に立ち続け、前著『発達障害 境界に立つ若者たち』で、「周囲にはなかなか理解されず、要領もよくないけれど、懸命に生きている若者たち」のありのままの声を紹介し、続いて、本書で、その親御さん達の生の声に耳を傾けている。

 発達障害を抱えたわが子の生まれたときのこと、学校、就職のこと…。また、親として、どんなことに悩み、どう乗り越えてきたのか?

 「広汎性発達障害(PDD)」を抱えるツトム君のお母さん、LD傾向を抱えるタケシ君のお母さん、「軽度知的発達障害」を抱えるアミちゃんのお母さん、「高機能自閉症」を抱えるヨシカズ君のお母さん、「学習遅進」を抱えるマリコさんのご両親、発達障害についての情報や理解が乏しかった時代に体当たりで子育てをしてきた四人の母親と一組の夫婦へのインタビューを通して、発達障害についての具体的で分かりやすい事例やエピソードが紹介され、当事者だけでなく、一般の人達にも発達障害の適切な理解を促す内容として編集されている。長年発達障害を抱える子ども達と向き合ってきた著者ならではの的を射た質問にあたたかく、鋭いまなざしが感じられた。
 わが子の発達障害という理解が困難な障害を受け入れ、共に生きてきたお母さん達が乗り越えて来たであろう困難は計りしれない。経験に裏打ちされたエピソードや情報は、専門書にはない力を持って心に響く。「子どもに寄り添いながら、子どもが嬉しいこと、楽しいこと、自信を与えるようなことを考えるようにしてきた」というお母さんがいる。周囲の無理解を超えてわが子に愛を注ぎ続ける姿に胸を打たれた。本書には「母たちの奮闘記」という副題が添えられているが、社会での理解が進み、母たちが奮闘しなくても、発達障害の子ども達が生きていける社会の実現を願いたい。

 著者は、発達障害の無理解の壁に挑み、障害の理解こそが支援への第一歩であることを強く訴えている。「発達障害が固定された障害ではなく、年齢や経験を重ねることで改善されていく可能性がある」という一文に希望を見出す読者も少なくないだろう。本書を読むと、発達障害のお子さんを抱える家族は励まされ、また、当事者でない読者は発達障害を身近な問題として考える機会が与えられる。発達障害への本質的な理解を促す良書だ。

(2011年7月27日オンライン書店ビーケーワンに寄稿)

(2011年8月5日オンライン書店ビーケーワン書評ポータルにて、「今週のオススメ書評]」に選んでいただきました。)

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2010年8月 7日 (土)

平和への祈りと明日への希望 ~「テレジンの小さな画家たち詩人たち」~@北九州

 去る8月3日、北九州市立戸畑生涯学習センター1階ギャラリーで開催中の「テレジンの小さな画家たち詩人たち」に立ち寄りました。
 
 主催は、さと子の日記広場の鍬塚さと子さん。
 北九州市立戸畑生涯学習センター1階ギャラリー
 2010年8月3日~8日まで開催


Cimg2358  第二次世界大戦中、ナチスドイツの支配下にああったチェコスロヴァキア(当時)のテレジン収容所には、15000人の子ども達も収容されていました。その子ども達のほとんどがアウシュヴィッツに送られ殺されました。生き残った子ども達は100人に満たないと言われています。
 戦争が終わりドイツ軍が去ったあと、収容されていた子どもたちが描いた4000枚の絵と数点の詩が残されていました。作家の野村路子さんは、「この絵を日本の子どもたちに見てもらいたい」と、プラハのユダヤ博物館に交渉し、1991年から日本の各地で展覧会を開きテレジンの子ども達のことを伝えています。

 実は、この展示会を観るのは、今回で2度目です。1998年東京の田無市(現・西東京市)で開催された「野村路子氏による講演会とテレジン収容所の子どもたちの絵画展」以来、12年ぶりにテレジンの子ども達の絵と詩に再会しました。

 12年前、障害を抱えた娘が思春期を迎え、いろいろな問題行動に母親として苦しんでいました。努力の及ばないことも多く、母親として行き詰っていた時、偶然通りかかった田無市民会館で、子ども達の絵に出会い、野村路子さんの講演を聴きました。

 強制収容所の中で、食事も満足に与えられず、1日中、重労働に駆り立てられていた幼い子ども達に、文学や演劇、美術や音楽の専門家たちが、歌を歌い、絵を描き、詩を作ることを教えたのだそうです。 絵を描き、詩を作るという行為が、収容所の環境の極限状態の中で、子ども達に明日への希望を与えたということを知らされました。

 ホロコーストの犠牲になった子どもたちが最期まで希望を失わずに生きたこと、それを支えたクリエイティブな大人たちがいたことを知り、私の心に光が射しました。

 どんな状況に置かれても明日への希望を失ってはならないと。

 その思いを託した短歌が、さと子さんとの不思議なご縁で会場に掲載されました。

Cimg2351

・野村路子語るテレジンの収容所一万五千人の幼らの無惨
・幼らの生死も労働に分かつなるテレジンはアウシュヴィッツへの門
・亡命を拒みてナチスに捕らわれしディッカー先生若き日バウハウスに学ぶ
・子とめぐるテレジン収容所の絵画展鎖のごとく重き心に
・子らの絵に書き添えらるる子らの名とアウシュヴィッツに送られし日と
・花の野に蝶高く飛ぶ絵の多し蝶は人より大きく描かれて
・団らんの絵の片隅に番号のつけられし収容所のベッドが並ぶ
・セーターをほどきし毛糸に描きたる赤き花ドイツ軍の書類の上に咲く

       「未来」1999年1月号 近藤芳美選 二十人集より

 
 詳細は、鍬塚さと子さんのブログ@もも日記をご覧ください。
 
・ダイアローグ http://momo.satokono.littlestar.jp/?eid=991116
・戸畑会場二日目 http://momo.satokono.littlestar.jp/?eid=991267
・戸畑会場三日目 http://momo.satokono.littlestar.jp/?eid=991371
・テレジン展は4日目
 http://momo.satokono.littlestar.jp/?eid=991487


・「テレジンの小さな画家たち詩人たち」
  http://momo.satokono.littlestar.jp/?cid=47070

 若い方からご高齢の方まで会を支えている方々の熱意と平和への祈りに満ちたすてきな会場でした。

テレジンの小さな画家たち―ナチスの収容所で子どもたちは4000枚の絵をのこした Book テレジンの小さな画家たち―ナチスの収容所で子どもたちは4000枚の絵をのこした

著者:野村 路子
販売元:偕成社
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2009年10月10日 (土)

梨木香歩著『家守綺譚』の植物アルバム

家守綺譚 Book 家守綺譚

著者:梨木 香歩
販売元:新潮社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

家守綺譚 (新潮文庫) Book 家守綺譚 (新潮文庫)

著者:梨木 香歩
販売元:新潮社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 百年少し前の日本が舞台となった物語。
 主人公綿貫征四郎は、縁があって亡き友高堂の家守をすることになった。高堂家の北は山に面し、南は田圃に面している。山から田圃に向かって疎水が流れ、家の中に池がある。四季折々の植物に恵まれた環境の中で、新米知識人として物書きを生業とする綿貫征四郎は、河童や小鬼、白竜の子、桜鬼、聖母に出遭う。床の間の掛け軸の絵から、時折亡き親友高堂が現れる。
 綿貫に想いを寄せるサルスベリ、綿貫が踏み破った床から育ったカラスウリ、狸に化かされた後に届けられたマツタケに添えられていたホトトギスの花など、植物と綿貫を巡る28の綺譚集。

 28の植物の写真を眺めながら再読すると味わいが深い。例えば、高堂が床の間に落としていったセツブンソウ、鈴鹿の山の斜面一面に咲く花を知っていますか。「見慣れぬ純白の繊細な造りの花」「下界にまみれぬ、清澄な気配を辺りに放っている」と表現されているセツブンソウを知ると、綿貫の「成程これでは深山の奥にしか棲息できまい」と思う気持ちに深く共感できる。また、南蛮ギゼルも同様だ。「不思議な浮世離れした感じ」を好み、南蛮ギゼルが出て来たのを嬉しく思う綿貫の気持ちに少し近づけるような気がする。空間的にも時間的にも別次元の物語でありながら、28の植物が読者との接点として重要な役割を果たしていることを感じた。

 物語のクライマックスは、最終章の「葡萄」ではないだろうか。夢の中で湖の底とおぼしき広場にゆき、テーブルに置かれた葡萄の魅惑に負けずに、夢から現実へと戻ることができた綿貫征四郎。綿貫の物書きとしての成熟を予測させる夢であることを感じさせられる。親友の死を次なる作品の中で昇華できるのではないだろうかという期待感が心地良い読後感につながる。
 綿貫の元に時おり届く村田の土耳古からの便りも物語の世界に空間的な広がりを与え、続く作品『村田エフェンディ滞土録』への布石となっていて興味深い。現実に深く着地した世界から、読者をファンタジーの世界へと導くのが梨木作品の魅力ではないだろうか。28の植物のみならず、鬼の子や鳶を見て安んずる心性を持った主人公綿貫自身が読者をファンタジーの世界へ導くのに一役買っているように感じる。
 ワープロからパソコンへと進化した世界に生きながら、「ペンが進まない」というより、「筆が進まない」と云う方を好む綿貫の言葉に深い共感を覚える。100年経た私たちの魂も未だ旅の途上にあるのかもしれない。見返しの「白鷺」「巴の雪」の日本画も表紙もすばらしい。『家守綺譚』の中には、時代の進歩に齟齬を覚える魂に深い安らぎを与えてくれる時間が静かに流れている。心と体が疲れたとき、ふと読みたくなる一冊である。

追記:梨木香歩著『家守綺譚』の物語の世界をより深く味わうために「家守綺譚の植物アルバム」を作成しました。http://mothergoose-0510jp.cocolog-nifty.com/photos/nashikikahoshokubutsu/ (2009年2月15日)

追記2:「家守綺譚の植物アルバム」を閲覧してくださる皆様のため、過去記事を更新しました。(2009年10月10日)

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2009年8月21日 (金)

『障害の重い子とともにことばを育む』(学苑社)

 『障害の重い子とともにことばを育む』(学苑社)が、下記の通り、オンライン書店ビーケーワンの書評ポータル(2009年8月21日)にて、ご紹介いただきました。

 この機会に多くの皆様に障害の重いこどもたちがどのようにことばを獲得していくのか、また、そのために実践を通して研究を重ねている先生方の存在を知っていただきたいとの願いを込めて、お知らせ致します。

-----以下、オンライン書店書評ポータル-----

 私たち日本人は
手先が器用で、実用的な工夫が得意だと言われています。反面、物事の原理をじっくりと考える力が弱いとされています。その当否はわかりませんが、書店員として、日本人の手になる骨太の文明批評のような本は意外と少ないなあ(特に最近は)という感想は持っています。今週“くまくま”さんから書評をいただいたジャック・アタリ『21世紀の歴史』には、「利益を求めずに働ける人たちが国際機関を組織し、全ての人類が必要財を手にできる、超民主主義」のアイディアが展開されているそうです。こうした巨大な見通しをきちんと展開できる人がいるというのが、欧州の強みでしょう。ところで“くまくま”さんは、この本を読んで何と東洋の叡智の書である『易経』を思いつかれたそうです。「易は、坤から乾まで、爻という横棒が順次、陰陽変化しながら状態を遷移していき、六十四卦を生み出す、というのがボクの理解だ。だから、ある状態から移れる状態は限られており、いきなり変な状態に飛んだりはしない。そして、これを社会と結びつけることにより将来を占う」。いやあ、驚きました。東洋人にしか浮かばない発想ですよね。ジャック・アタリ氏がこの書評を読んだらすごく面白がるのではないでしょうか。日本の読書人もやるものです(偉そうですみません)。皆さんも、臆せず、自由に、大胆に、独自な発想を書評の中で展開していただければと思います。

■当店の“書評の鉄人”の新刊
“浦辺 登”さん『太宰府天満宮の定遠館』
“まざあぐうす”さん『障害の重い子とともにことばを育む』

<2009.8.21 オンライン書店ビーケーワン販売部 辻和人>

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 以下、まざあぐうすの『障害の重い子とともにことばを育む』の書評です。

 心身に重い障害を抱えて生まれてきた子ども達は、様々な痛みや不快感に耐え、自らの生命維持のために多くのエネルギーを費やさなくてはならず、言葉を発することや書くことに多大な困難を生じます。また、ことばを発することや書くことができても、ことばをコミュニケーションの手段として用いることができないことが多いのです。
 本書は、「障害児のためのことばあそび」の実践を通して、どんなに障害が重い子でも、大人のかかわり方次第で自分の中のことばに気付いていくことができるという確信を得た小川原芳江氏や佐藤真理子氏を中心とする「あ」の会のメンバー(養護学校・小学校教師、保育士、看護師、施設職員、保護者)が、「子どもの心に添う」「子どもの表現力を育てる」というテーマで、発語が困難な状態の子どもたちのことばを生み出すための研究を重ねていた時期の実践記録です。

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2009年7月31日 (金)

イタリア児童文学の傑作古典『ジャン・ブラスカの日記』―「君たちは、自分の心と体で感じ、考え、行動せよ」 誕生100年を経て物語の真価を問う

  ジャン・ブラスカは、イタリア人なら誰もが知っているピノキオに次ぐ有名な児童文学作品の主人公です。『ピノッキオの冒険』や『クオーレ』と並ぶイタリアの国民的児童文学の永遠の名作である『ジャン・ブラスカの日記』は、物語誕生から100年を経て、再び脚光を浴びています。本書は、その初版挿絵を再現した池上俊一氏による初の全訳。
 両親と3人の姉と暮らすジャンニーノ・ストッパーニは、9歳の誕生日に母さんからもらった日記帳に絵日記を書き始めました。ジャンニーノは、筋金入りのいたずらっ子で不本意にも大人たちからジャン・ブラスカ(台風のような悪ガキ)と呼ばれています。
 日記帳は次から次に繰り広げられるジャンニーノのいたずらに満ちています。9歳の少年の無邪気な言葉で語られるいたずらの数々に笑ったり、驚いたり、冷や汗をかくような思いを味わったりしながら、文庫本で439ページに及ぶ長い物語をあっという間に読み終えてしまいました。

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2009年3月18日 (水)

三田誠広著『星の王子さまの恋愛論』(集英社文庫)  かんじんなことは目に見えない サン・テグジュペリの恋愛論

星の王子さまの恋愛論 (集英社文庫) Book 星の王子さまの恋愛論 (集英社文庫)

著者:三田 誠広
販売元:集英社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 『星の王子さま』の物語の中には珠玉のような言葉がちりばめられている。その一つとして、真っ先に浮かぶのが、王子さまと砂漠で出会ったキツネが別れの時に語る「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ。」という言葉だろう。

 本書は、「目に見えないかんじんなこと」とは何か、作者であるサン・テグジュペリが込めた恋愛論といえる部分を中心に『星の王子さま』の物語を紐解いていく。著者である三田誠広氏は、まず、サン・テグジュペリの幼年期の生い立ちや成人後の作家として、また、パイロットとしての生き様を辿り、古いお城で過ごした幼年期やパイロットとしての不時着の経験、婚約破棄や結婚生活の実質上の破綻などが物語の原点となっていることを明らかにしている。『星の王子さま』が出版された1943年はサン・テグジュペリの祖国フランスがナチス・ドイツの支配下にあったという時代背景が物語りに影を落としていることも。続いて、その作品である『南方郵便機』や『夜間飛行』を同じ小説家という立場から解釈し、『星の王子さま』の物語の原型をくきやかにあぶり出していく。
 本書の第1章から終章までの8章を通して浮き彫りにされるのは、人間としてのサン・テグジュペリの深い孤独感である。『星の王子さま』の物語の語り手であるパイロットも王子さまもキツネも花もヘビも、皆、孤独な存在だ。また、その出会いは、いずれも唐突で、ヘビを除いて、その別れは切なく哀しい。本書において著者は、第2章の「星の王子さまはどこから来たか」と第4章の「花はどこから来たか」という自らの問いに端を発して、サン・テグジュペリが物語りに込めた目に見えない恋愛の「かんじんなこと」(本質)を説き明かしている。

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2009年2月21日 (土)

愛と孤独に対する深い洞察に満ちた恋愛論  (福永武彦著)『愛の試み』(新潮文庫)

 2月初旬から読み始めた同著をようやく読み終えました。何度もくり返し、じっくりと読みました。2月に入ってからの読了本の数は少ないのですが、その質は濃いものだと思っています。児童書ではケイト・デ・カミロの作品を数冊、音楽関係では徳永英明さんの『半透明』、そして、同著です。偶然ですが、テーマはいずれも愛と孤独。ケイト・デ・カミロの作品のレビューも今月中に書きたいと思っています。

 「家守綺譚の植物アルバム」も閲覧いただきうれしく思っています。どうぞこれからもよろしくお願い致します。

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 『愛の試み』は福永武彦氏(小説家・詩人)が説く恋愛論。
 「夜われ床にありて我心の愛する者をたづねしが尋ねたれども得ず。」
 冒頭に雅歌の第三章を引用して、人間の持つ根源的な孤独の状態を簡潔に表現していると説き、この孤独はしかし、単なる消極的な、非活動的な、内に鎖された孤独ではない。「我心の愛する者をたづねしが」―そこに自己の孤独を豊かにするための試み、愛の試みがあると説く。

 スタンダールの恋愛論の結晶作用と融晶作用、愛につきもののエゴ、嫉妬、憐憫、自己犠牲、愛と理解の違い、愛することと愛されることの隔たりや人間の愛の限界について語りつつ、恋愛と孤独を対立させることなく相補的に説きつつ、その論が観念的に終始しないように「釣のあと」「花火」「細い肩」「女優」「盲点」「音楽会」「雪の浅間」「歳月」「砂浜にて」と題する9つの掌編を関連する章の後に挿入している。

 著者の恋愛論の実践編とも思える9つの掌編は文学性も高く、著者の論の理解を促す作品であった。いずれも一筋縄ではいかない男女の心の機微が巧みに描き出されている。現実の恋愛も孤独も不完全であることを認めた上で展開される著者の恋愛論には説得力が感じられた。本書は薄っぺらな恋愛の指南書ではない。

 「自己の孤独を恐れるあまり、愛がこの孤独をなだめ、酔わせ、遂にはそれを殺してしまうように錯覚する。しかし、どんなに燃え上がろうとも、彼が死ぬ以外に、自己の孤独を殺す方法はない。」と説く著者の言葉に愛することをひるむ読者もいるであろう。しかし、人間が根源的に孤独な存在であるとすれば、愛することを試みた以上、苦しみから逃れることは出来ないのではないだろうか。著者の言葉に愛することへの覚悟を促された。脆弱な孤独から豊かな愛は育たないのだ。

 「愛は持続すべきものである。それは火花のように燃え上がり冷たい燠となって死んだ愛に較べれば、詩的な美しさに於て劣るかもしれぬ。しかし節度のある持続は、実は急速な燃焼よりも遥かに美しいのだ。それが人生の智慧といったものなのだ。しかも時間、この恐るべき悪魔は、最も清純な、最も熱烈な愛をも、いつしか次第に蝕んで行くだろう。従って熱狂と理智とを、愛と孤独とを、少しも衰えさせずに長い間保って行くことには、非常な努力が要るだろう。常に酔いながら尚醒めていること、夢中でありながら理性を喪わないこと、イデアの世界に飛翔しながら地上を見詰めていること、―愛における試みとはそうしたものである。その試みは決してた易くはないが、愛はそれを要求する。」
 新約聖書のコリント人への手紙Ⅰの十三章(愛の章)を彷彿させる著者の言葉にその恋愛観が凝縮されているように思えた。愛と孤独に対する深い洞察に満ちた恋愛論の名著として蔵書にしたい一冊。

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2009年2月 2日 (月)

旅を続ける生命とその生命を支える絆を深く心に伝える物語  『からくりからくさ』

 母の古い家に共同生活を始めた孫娘の蓉子、下宿人の紀久、与希子、マーガレットの四人と市松人形の「りかさん」。かつて蓉子の祖母は、体は命の「お旅所」だと言った。命は旅をしている。私たちの体は、たまたま命が宿をとった「お旅所」だ。それと同じようにりかさんの命は、人形のりかさんに宿ったのだと言う。
 祖母の家は祖母が亡くなった今も祖母の「育もう」とする前向きなエネルギーを留めている。祖母の気配に満ちた家で、心を持つ不思議な市松人形の「りかさん」を通してからまる四人の縁。
 

 蓉子は糸を染めながら、祖母の死と祖母の死後変わってしまったりかさんと向き合いながら生きている。紀久は紬を織り、紬の織り子さん達への実地調査を元に、織りの歴史を裏で営々と支え続けてきた名も無い女性たちのことをそれぞれの織物を通して紹介するための原稿に身を費やして生きている。そして、恋人神崎との辛い別れにも耐えている。
与希子はキリムを織り、紀久と蓉子との三人展のための作品創りに余念がない。マーガレットは、アメリカで異民族として生きた辛い過去と闘いながら、鍼灸を学んでいる。そして、神崎との間に出来た新たな命を育んでいる。

 原稿の出版にあたって試練を受け、故郷に帰っていた紀久が「人はきっと、日常を生き抜くために生まれるのです」と言う。 紀久と与希子の縁は、「りかさん」を作った澄月という人物を通して互いの祖先へと遡る。澄月は、人形作りになる前は能面を作っていた。紀久が紬を、与希子はキリムを織る。紀久とマーガレットの想い人である神崎青年を通して、織物は日本から中近東のキリム、クルドの世界へと及ぶ。それぞれの祖先が生き抜いてきた日常と今それぞれが生き抜いている日常が、からくりからくさのようにからまって、個を超えた普遍の模様を織り成す物語。

 蓉子が染めに使う植物や四人の食卓に上る庭の草花、クルディスタンに咲く草花が美しい。日本の織物である紬も中近東のキリムも、女達のマグマのような思いをとんとんからりとなだめなだめ、静かな日常に紡いでゆく営みであることを語る紀久の手紙の言葉が心に残る。抑圧された民であるクルド人の世界がマーガレットの恋人となった神崎の手紙を通して語られることで、物語の奥行きが深くなっていることを感じさせられる。クルドの民を語ることで、染めも織りも人形も能面も、美しいものは人間の抑圧された苦しみを経て作り継がれて来たことを作者は伝えたかったのではないかと思う。クルドを語ることなく、『からくりからくさ』を完結できない作者の思いの深さに感銘を受けている。

 染め、織り、人形、蛇、能面、唐草、それらの全てが、蓉子と紀久、与希子の合作「りかさん」炎上で芸術的な一体となる最期が圧巻だ。そして、「りかさん」の死が、マーガレットの新たな命へと連なり、蓉子、紀久、与希子、マーガレットの再生を予感させる。旅を続ける生命とその生命を支える絆を深く心に伝える物語としてお勧めの一冊。

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2009年1月30日 (金)

疾病や障害の逆説的な役割・創造的な力を語る 『火星の人類学者』

 私の娘は点頭てんかんという重い病を抱えて生まれてきました。知的な障害を抱えながら、今年で20歳になります。オリヴァー・サックス博士の医学的エッセイ集『火星の人類学者』の「はじめに」で、博士が「欠陥や障害、疾病は潜在的な力を引き出して発展、進化させ、それがなければ見られなかった、それどころか想像もできなかった新たな生命の形を生み出すという逆説的な役割を果たすことができるのである。」と述べている言葉に、母親として大きく励まされました。

・事故ですべてが白黒に見える全色盲に陥った画家
・脳腫瘍により、新たな記憶が刻めなくなってしまった青年
・激しいチックを起こすトゥレット症候群の外科医
・白内障の手術により視力を回復し「見ること」を学習する元盲人
・故郷の風景の詳細な記憶から絵を描き続けている画家
・自閉症の天才的な少年画家
・「わたしは火星の人類学者のようだ」と自ら述べる自閉症の動物学者

 脳神経に障害をもつ七人の患者の病状を臨床的かつ客観的に語りながら、同著のテーマである疾病のパラドックス、つまり疾病の「創造的な」力を、浮き彫りにしてゆきます。
斬新なテーマもさることながら、博士が、障害を抱えて生きるそれぞれの内面世界を深く洞察していることが、この本の最大の魅力かもしれません。客観性に裏づけされた洞察に、博士の医学的な探究心のみならず、深い人間愛を感じさせられました。博士の文章力(描写力)もすばらしいです。
 

 生後10ヶ月で点頭てんかんと診断された時は、「歩くことも話すこともできないでしょう。」と言われた娘が、演劇のサークルに所属して、舞台に立っていますし、水泳ではマンツーマンの指導を受け、障害者の水泳大会でメダルをいただいています。娘が障害を抱えながら育ってゆく姿を通して、人間の脳の補償作用のようなものを漠然と感じていましたが、同著を読み、現代の脳科学では証明できない脳の働きに対して確信を持ちました。

 娘と生きている中で、「障害」と「健常」との違いなんてあるのだろうか。人間皆、何らかの障害を抱えて生きているのではないかと感じることがしばしばです。また、障害を治すことを目的とした学校教育のあり方に疑問を抱いたこともあります。
 脳神経に障害を抱え、不可思議な症状に悩まされながら、その障害とともにアイデンティティを築き、自分なりの人生を創造的に歩んでいる7人の生き様を通して、障害を治療や訓練の対象とのみ見なすのは誤りではないかと感じました。博士が語る7人の姿は、人間とは、また、生きるとは・・・と哲学的な問いに対する示唆にもなり得るのではないでしょうか。

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ことばって何? 「母語」について、「ことば」について考える時にお勧めの一冊  『にほんご』

 「ことばには いつも きもちが かくれている。」
 ことばって何?と問われた時、どう答えるだろうか。
 今の自分にぴったりの答えが、見つかった。
『にほんご』という本の中の一節だ。

「けれど きもちが あんまり はげしくなると
 ひとは それを ことばに できなくなることもある。
 わらったり ないたり、
 ひとりぼっちで だまりこんだり、
ぼうりょくを ふるったり・・・・
そんなとき、ことばは こころのおくふかく かくれてい る。」と続く。
 ことばの中に気持ち(心)が隠れていて、心の奥深くにことばが隠れているという哲学的な言葉観にはっとさせられた。

 『にほんご』は、1979年の初版から読み継がれていることばの本のベストセラー。安野光雅、大岡信、谷川俊太郎、松居直によって、自由に、独創的に構想された、文部科学省の学習指導要領にとらわれない小学校1年生の国語教科書である。

 「ことばは からだの なかから わいてくる。」と言う一節も心に響く。
 小学1年生と言えば、ことばを体系的に学び始める時期だ。初めて論理的にことばに触れる子ども達に向かって、ことばは頭ではなくて、体の中からわいてくるという。
 ことばの豊かさを求めるならば、豊かな体験を求めよというメッセージだろう。
 「にほんご」という題名でありながら、世界各地のことばを紹介している。
ことばが意味伝達、感情表出の一つの手段であることを告げながら、ナンセンスやリズム、そして、ことばあそびの大切さを伝えている。
ことばを通して人間のあり方を考えることや人間関係を築くことの大切さをさり気なく伝えている。
 また、点字の紹介も丁寧だ。
 私たちが生きているのと同じようにことばも生きている。
 だから、ことばには体と心と全てをかけて向かわなくてはならない。ことばは人間が生きていく上で、とても大切なものなのだ。
 そんなことを楽しく、分かりやすく教えてくれる一冊。谷川俊太郎氏による文章も安野光雅氏による挿絵も美しい。
 小学校1年生の教科書として用いるならば、先生と生徒の関係性が大きく問われるだろう。教える側の人間性が深く問われるだろう。その問いが教える側の大人に成熟を促すのではないだろうか。
 言語教育関係者のみならず、「母語」について、「ことば」について考える時にお勧めの一冊。

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