児童図書相談士

2014年5月14日 (水)

絵本・児童文学研究センター正会員月間レポート賞:2013年9月正会員ゼミ「いま読む新美南吉ー生誕100年に寄せて」 講師工藤左千夫

  NPO法人絵本・児童文学研究センターの2013年9月正会員ゼミ「いま読む新美南吉-生誕100年に寄せて」 講師工藤左千夫>のレポートで、正会員月間レポート賞をいただきました。お読みいただけるとうれしいです。
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 私は新美南吉の作品に大人になってから出会った。『でんでんむしのかなしみ』、『ごん狐』、『おじいさんのランプ』、『手袋を買いに』、『花のき村と盗人たち』、『正坊とクロ』、『張紅倫』など、30歳になった頃から愛読している。

手毬歌かなしきことを美しく

南吉の童話を読むたびに高浜虚子のこの一句が思い出される。人生の不条理や人間のもつ根源的な悲しみが物語の中で炙り出されたのち、しんしんと心に沁みる。そして、子ども達の歌声が手毬歌のかなしさを昇華するかのように心が澄みわたる。

20年程前、田無市(現・西東京市)の教職員組合主催の勉強会で藤田のぼる氏の講演を聴講したことがある。そこでは氏の『麦畑になれなかった屋根たち』という絵本にまつわるエピソードや歴史的背景が語られた。第二次世界大戦中、B29による空襲を避けるため、中島飛行機工場に1000人ものペンキ屋の職人達が集められ一日で広い工場の屋根を麦畑に塗りかえたことがあった。最新鋭の技術を駆使した大型爆撃機に対する必死の努力であったが、アメリカ側は武蔵野郊外にある工場の位置を正確に把握しており、すべてが無駄に終わってしまったのであった。

戦争という歴史の不条理と異常事態の中で、はかない努力を強いられた人間の姿を語り、絵本を生み出した氏は童話作家である南吉を語るにふさわしい人物であり、実際、日本児童文学者協会で南吉の著作権を守ってきた人物でもある。

今回の講義で南吉の作品に改変、補筆、改ざんが加えられていたことを知らされた。南吉の作品が死後、巽聖歌に託されたことにより、聖歌による改ざん、加筆、修正がくり返されており、また、現在の国語教科書のすべてに掲載されている『ごん狐』に関しても、原作『権狐』が「赤い鳥」(19321月号)に掲載されるに当たって、鈴木三重吉による改題、改変、補筆がなされている。

講義の中で、原作である『権狐』と改変、補筆後の『ごん狐』が読み比べられたが、原作よりも改変、補筆後の『ごん狐』の方がはるかに完成度が高く感じられた。しかし、三重吉の改変、補筆の手が入ったとしても、物語の骨子は南吉オリジナルのものである。南吉童話の愛読者の贔屓目かもしれないが、三重吉本人の作品が過去のものとなってしまい、南吉の作品が死後100年を経た今の子ども達に読み継がれていることを思えば、童話作家としての力量や才能は南吉に軍配が上がるのではないか。一方、巽聖歌による改ざんに関しては、聖歌の没後、問題視されるようになり、原作が再調査され全集の校訂版が刊行されている。

死後50年で著作財産権が消滅した後も作品がゆがめて扱われないように著作人格権を守る活動が、新美南吉の会(日本児童文学者協会)によってなされてきたが、生誕100年目を迎え、その著作権継承者名義が南吉の生まれ故郷の半田市に移譲されたことが報告された。南吉の作品がこれから後も汚されることなく守られていくことを心から願いたい。

講義の最後に今の子ども達の心に届くであろう作品として『屁』が取り上げられた。南吉の少年物語にくり返し登場する久助君、徳一君ではなく、春吉君が主人公、放屁をくり返し、級友たちからからかいの対象となっている石太郎君がサブの主人公として登場する作品である。石太郎だけでなく、人間誰しも放屁をする。自分がうっかりしてしまった放屁を隠し通し、石太郎のせいにしてしまった春吉。子ども達が教室でくり広げる些細なエピソードの中で、人間の持つ心の暗部がさり気なく炙り出された作品である。南吉の少年物語は自らの教員体験に基づいているからであろうか、教室での出来事が具体性に富み、子ども達の心の動きが生き生きと描かれている。テレビゲームやネットの世界に早い時期から没頭する今の少年たちの心に届けたい作品である。

リアルな世界での実体験が乏しいまま、ゲームやネットのバーチャルな世界に没頭する青少年のネット依存の遠因には幼い頃の読書体験の乏しさがあるのではないだろうか。ブックスタートや絵本の読み聞かせ、そして、朝の読書運動など、子ども達がネットに過度に依存しないための対策として推奨したい。新美南吉生誕100年を記念して、教科書掲載の作品だけでなく、もっと多くの南吉の作品を子ども達の心に届けたいと思った。

(文責:吉村眞由美 NPO法人絵本・児童文学研究センター児童図書相談士1級)

 

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絵本・児童文学研究センター正会員月間レポート賞:2013年3月正会員ゼミ「アメリカ絵本の黄金期」Ⅱモーリス・センダック  講師工藤左千夫

 NPO法人絵本・児童文学研究センターの2013年3月正会員ゼミ<「アメリカ絵本の黄金期」Ⅱモーリス・センダック 講師工藤左千夫>のレポートで、正会員月間レポート賞をいただきました。お読みいただけるとうれしいです。

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  2012年度正会員ゼミはワンダ・ガアグに始まり、マージョリー・フラック、バージニア・リー・バートン、マリー・ホール・エッツと続いて、アメリカの絵本作家が特集されている。ワンダ・ガアグ、マージョリー・フラック、バージニア・リー・バートンらが絵本作家として正統派に分類され、アメリカの田園で暮らしていたのに対して、今回のゼミで紹介されるモーリス・センダックは、正統派には分類されず、ニューヨークという都会で生活している。

私がセンダックの絵本と出会ったのは、母親として子どもたちに絵本を読み聞かせるようになってからである。『かいじゅうたちのいるところ』は、子どもたちに読み聞かせを何度せがまれたか知れない。また、原作の“Where the Wild Things Are”は、英語の授業中の読み聞かせで、高校生たちに最も受ける絵本の一冊である。高校生たちも幼い子どもたちのように、絵本を食い入るように見つめてくれる。大人を対象にした読み聞かせの会でも同様だった。センダックの絵本は見る者のまなざしを釘付けにする。私自身も、『かいじゅうたちのいるところ』に限らず、『まどのそとのそのまたむこう』や『ミリー 天使にであった女の子のお話』など、センダックの絵本を読み終えた時、不思議なカタルシスが与えられる。読者のまなざしを釘づけにする絵本の魅力とは? また、読み終えた時に得られるカタルシスとは? センダックの作品とその背景に深く迫る今回のゼミを興味深く聴講した。

センダックは1928年ニューヨークのブルックリンに生まれた。両親はポーランド系ユダヤ人である。父親が即興の物語を語るのが上手で、ユダヤに伝わる古い物語をもとに即興の話をしてくれた。病弱だったため、孤独な少年時代を過ごしたセンダックにとって、幻想と神秘の世界への強い興味は幼いころの父親の即興物語にあると言われている。

高校卒業後、ウィンドウ・ディスプレーの仕事を始めたことがきっかけで絵の才能が認められ、挿し絵を書き始め、絵本の世界に入った。絵は美術館に通い、クレーン、コルデコットなど19世紀イギリスの挿絵画家の作品から独学で学んでいる。ルース・クラウスの作品の挿絵を描くことで頭角を現し、1950年代後半から絵本の創作も手掛けるようになった。

ゼミの冒頭で、センダックの作品の根っこにある”dumps”(子どもの憂うつ)について語られた。病弱で孤独な少年時代を過ごしたセンダック自らの憂うつとも重なる。その憂うつは、センダックの初期作品である『わたしたちもジャックもガイもみんなホームレス』(“We Are All in the Dumps with Jack and Guy”)の”Dumps”という原題にも使われている。マザーグースのrhymeの一節だ。子どもたちは憂うつを乗り越えるために現実から空想の世界へと羽を伸ばす。そこにセンダックのファンタジー(物語)が生まれるという工藤先生の着眼点がユニークだ。

センダックの作品は、『かいじゅうたちのいるところ』をはじめとして、『まよなかのだいどころ』など、大人の批判を多数浴びている。言葉づかいやイラスト上の子どもの裸体が問題とされた。しかし、センダックは絵本を創るに当たって、「子ども時代を生き抜く子どもたち」が最大の関心事であることを述べ、世の批判にひるまない。子どもの深層心理を洞察し、子どもの憂うつから発する想像の世界を描いているのだ。センダックは常に子どもの側にいる。読者の中の子どもに語りかける。イマジネーションや弾む心を失った大人たちには理解の届かない世界を描いている。センダックの絵本を読み終えた後のカタルシスは、こうしたセンダックのゆるぎない洞察力と絵本作家としての立ち位置にあるのだと確信した。

「哲学と芸術は苦悩する人間を描くもの」というニーチェの思想が引用され、さらに工藤先生の哲学的な分析が続く。センダックの作品世界に表現されえているペシミズムを、ニーチェの「ディオニュソス的ペシミズム」、つまり、『悲劇の誕生』で説かれた芸術衝動の一つで、陶酔的、創造的、激情的などの特徴をもつペシミズムに類似していると。センダックは、絵本の創作において、「今日の複雑な世界を生きる子どもたちが直面している諸問題」から目をそらさない。子ども時代が夢見心地であるという幻想などつゆ抱いていない。センダックの作品には常に「苦悩する子ども」がいて、不安や恐怖や寂しさを乗り越えるため、想像の世界に羽ばたいていく。子ども時代に独特の感情がしっかり描かれているのだ。大人になってセンダックに触れた私にとって、マックといっしょに怪獣たちと踊ることもミッキーといっしょに夜空を飛ぶことも、自分からかけ離れた遠いことのように思えていたが、センダックの作品世界にニーチェの思想を感受された工藤先生の解説によって、センダックの作品が芸術として身近に感じられるようになった。

 カタルシスもそうだが、センダックの絵本から音楽が聴こえるような感覚を覚えていた。工藤先生の繊細で鋭いセンダック論に触れ、自分が何となく感じていたことをさらに確かめてみたくなり、ゼミを聴講した後、『センダックの絵本論』(岩波書店)を読んだ。冒頭で、まさにセンダックが「音楽を描く」ということを述べている。センダックが子どもの本の絵に欠くことのできないものと考えているのが、純粋な動きの精神、生命を吹き込む息、動きへの揺さぶりであり、それらを最もうまく表していることばとして、quicken(生命を与える)ということばを挙げる。また、その意味を「音楽的に発想する」と解説している。「音楽にはファンタジーを解き放つという独特な力がありますが・・・」とセンダックのことばが続く。センダックの絵本から音楽が聴こえるように感じていたのも、絵本を読み終えた後、解き放たれたような感覚を味わっていたのも、確かな感覚なのだとセンダックのことばから自分の感覚を信じていいんだよと教えられたようで、ほっとしている。このほっとする感覚こそ、センダックの作品の魅力ではないかと感じている。

 子ども達のために描かれたセンダックの絵本の魅力を知り、大人としてほっとすると同時に、日本の大人の子どもたちへの在り方が悲しく思えてならない。子どもたちに体罰を与える教師たち、そして、子ども達を虐待している大人たちに、センダックの絵本を薦めたいと思った。「あなたたちの中にこそ、大人になりきれないで苦しんでいる子どもたちがいますよ。その子どもたちのためにセンダックを読んであげなさい。きっとほっとしますよ。手は子ども達と握手するためにあります。腕は子ども達を抱き締めるためにあります。その手で、その腕で子ども達を叩かず、抱きしめてあげてください」と伝えたい。大人たちから体罰を受け、虐待を受け苦しみ、孤独を味わっている子どもたちに、誰か、センダックの絵本を読んであげてくださいとも。教育現場でも、学力を高めることより、進学率を高めることより、もっと大切なことがあるのではないか。学校司書の設置と読書運動に真剣に取り組んでほしい。家庭でも、子ども達に良書を与え、親子で楽しんでほしい。良質の本と食事と心身共に安心できる環境が、今の子どもたちに最も求められていることではないかと思った。

(文責:吉村眞由美 NPO法人絵本・児童文学研究センター児童図書相談士1級)

 

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絵本・児童文学研究センター正会員月間レポート賞:2013年1月正会員ゼミ「物語の行方」 対談:松本徹&工藤左千夫

 絵本・児童文学研究センター正会員月間レポート賞:2013年1月正会員ゼミ「物語の行方」対談 松本徹&工藤左千夫のレポートで、正会員月間レポート賞をいただきました。お読みいただけるとうれしいです。

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 対談の冒頭で、紙の本は生き残れるか?という問題が投げかけられ、松本徹氏によって、桂川潤著『本は物である 装丁という仕事』(新曜社)が紹介された。松本氏は、電子書籍は便利、紙の本は味わい深いというだけでは生き残れないという。紙の本ができるまでにさまざまな工程があり、それぞれが産業として成立している現在、それらの産業の死活問題でもある。紙の本の製作者それぞれが本気で腹をくくる、覚悟が必要な時が来ていると。

 続いて、それぞれの紙の本は作品が完成するまでに作家の、画家の、翻訳者の、出版社それぞれの決意や覚悟が存在していることが述べられた。角野栄子の「魔女シリーズ」全6巻では、主人公の成長物語として書こうという決意、(伊藤遊著)『えんの松原』では、子ども達のための物語を腰を据えて書き続けるという決意、絵本『きつね女房』のイラストが水彩から油彩にかわり、画家が納得するまで描き続け、出版が一年延びたなど、編集者という立場でしか見ること、知ることのできないエピソードであった。「ちびくろサンボ」の絶版の問題も「差別」について考える材料として残されているが、アパルトヘイトに反対の立場を表明して『カマキリと月』を出版したラヴァン・プレスの出版社としての覚悟は、読者の立場では知りえなかった、まさに命を懸けの覚悟だ。決意や覚悟のもとに生み出された本には読者もそれなりの覚悟で向き合わなければならない。それぞれの作品の新たな存在価値を知らされ、読者として背筋が正されるような思いを味わった。

対談の最後で、電脳化・電子化社会における大人の自覚と決意が問われ、大人が児童文学を感じ、理解し、感動し、子どもに伝えるべきではないか? という読書運動家である工藤先生と編集者である松本氏の共通の問題提起に深く共感を覚えた。

冒頭で紹介された『本は物である 装丁という仕事』を読み、「『テクストのみ』の電子ブックに対し、『物である本』はテクストのみならず、豊かなコンテクストを伴っている。装丁という仕事は、要はテクストに“身体性(物質性)”というコンテクストを与えていく作業といっていい。装丁のみならず、編集や書籍販売など本に関わるすべての仕事も、突き詰めればテクストにコンテクストを付与する作業、といって過言ではないだろう。テクスト(text)とコンテクスト(context) この対照的な二つの概念は、電子ブックを『物である本』の関係を考える上で、欠かすことのできないキーコンセプトとなるように思う」という件が心に残った。電子ブック問題は「身体喪失」の危機を孕んでいるという松本氏の見解にも重なり、「生きたコンテクスト」を編集し、装丁していく出版関連産業の存在を見守っていきたいという思いを強くした。

また、続いて読んだ『センダックの絵本論』(岩波書店)の中で、子どものころ、センダックが初めて本を手にしたときのエピソードが述べられている。「はじめて手に入れた本物の本は、姉が買ってくれた『王子と乞食』でした。・・・まず最初にやったのは、それをテーブルの上に立てて、まじまじと見つめることでした。マーク・トウェインに感銘を受けたからではありません。ただただ、ものとしてとても美しかったからです。それから匂いを嗅ぎました。・・・いい匂いがしたというだけでなく表紙もつやつやしていました。ラミネート加工をしてあったのです。私はそれをはじいてみました。すると、とてもがっちりとしているのがわかりました。私はそれを噛んでみたことを覚えています。」続いて、本作りに関して、「私は子どもたちが本で遊び、本を抱き締め、本の匂いを嗅いでいるのを見てきましたが、それを見れば本作りに心をこめなくてはならないのは明らかです。」(pp.183-4)と述べている。絵本作家としての覚悟や決意の源が幼いころの自分と本の関わりにあることが述べられているが、文字やことばを多く知らない子どもたちにとって、本は何よりも「もの」として存在することがうかがい知れる印象的なエピソードであろう。

今回のゼミでは、子どもの本の行方の伏線として電子書籍化の行方が語られ、時を得た内容であった。いじめや体罰問題を皮切りに、ネット社会の問題性など、子ども達の心身の危機が叫ばれている時代であるからこそ、「もの」である本、身体性を伴った本が子どもたちには必要とされているのではないか。「もの」である本の良書の存在を守っていきたい、そういう決意を心に固く抱いていきたいと思った。

(文責:吉村眞由美 NPO法人絵本・児童文学研究センター児童図書相談士1級)

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絵本・児童文学研究センター正会員月間レポート賞:2012年10月正会員ゼミ「アメリカ絵本の黄金期」Ⅱバージニア・リー・バートン 講師:工藤左千夫

 NPO法人絵本・児童文学研究センターの2012年10月正会員ゼミ<「アメリカ絵本の黄金期」Ⅱバージニア・リー・バートン 講師工藤左千夫>のレポートで、正会員月間レポート賞をいただきました。お読みいただけるとうれしいです。

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 わが家では、息子が幼いころ、『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』や『マイク・マリガンとスチーム・ショベル』、『はたらきもののじょせつしゃケイティ』を好み、絵本が擦り切れるほど読み聞かせをしたため、バージニア・リー・バートンの作品は私にとっても思い入れが深い。子どもたちが幼かった日々の思い出を辿るように彼女の作品を読み返し、心温まる思いの中で、今回のゼミを聴講した。

アメリカの絵本の黄金期の作家の中で、ワンダ・ガアグの影響を最も受けていると言われているバージニア・リー・バートンは、独特の文体と場面割の的確さが高く評価されている。その作品の特長や背景が年代順に解説された。バートンは、絵本の創作において、先にストーリーを作り、彼女の子どもたちに読み聞かせをした。そして、子ども達に受け入れられたストーリーを絵本に描いた。耳で聞くために練りに練った独特の文体は、自らの子ども達という最も愛おしく、最も厳しい存在が、そのフィルターとなっていたのだ。

『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』は長男のために、『マイク・マリガンとスチーム・ショベル』は次男のために、『はたらきもののじょせつしゃけいてぃ』は夫のために、『ちいさいおうち』は長女のために創作された絵本だ。『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』は木版画、『マイク・マリガンとスチーム・ショベル』は石版画、その後もスクラッチボードやカラーセパレーションなど作品ごとに手法を変え、新たな職人芸を駆使している。

『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』は機関車の前傾姿勢が独特に描かれており、動きのある作品となっている。また、『マイク・マリガンとスチーム・ショベル』は時代の流れで、新式のガソリン・ショベルや電気ショベルに仕事を奪われてしまったスチーム・ショベルのメアリ・アンが、運転士のマイク・マリガンと二人でがんばって、市役所の建築現場に大きな穴を掘る物語。科学技術の進歩の中、古き良きものへのあたたかいまなざしが感じられる作品だ。中でも、『ちいさいおうち』は1943年、カルデコット賞に輝いた不朽の名作である。田舎の美しい風景に囲まれて建てられた一軒の家が、都市開発が進む中、時代の変化をこえて残され、再び田舎に引っ越していくという物語。バージニア・リー・バートンは、科学技術の進歩による工業化と都市化や経済成長と金融恐慌、二つの世界大戦の勃発や公民権運動等の激動の時代の中で絵本の創作を重ね、子どもたちにさりげなく都市化の弊害を告げ、自然や簡素な生活の大切さを訴えている。

幼いころ息子が夢中になっていたバージニア・リー・バートンの作品の魅力が解き明かされる中、ひとつだけ心残りとなっているのは、バートンの最後の作品である『せいめいのれきし』を子どもたちに読み聞かせしなかったことである。「地球上にせいめいがうまれたときから いままでのおはなし」が5幕の劇仕立てで展開される大型絵本で、8年間という長い年月をかけて創作された大作だ。

日本の児童文学の大家である瀬田貞二氏が『絵本論』の中で「現在私の知るかぎりの子どもの絵本のなかから、どれか一冊最高のものを選べといわれたら、私は、バージニア・リー・バートンの『せいめいのれきし』をとりあげるでしょう」とまで絶賛する名作である。その理由として、「ある理念、ある抽象的な概念を子どもにわかりやすく表現」していることが挙げられている。バージニア・リー・バートンの作品は、内容が子どもにわかるように表現されているという観点においては、世界の絵本作家の最高峰に位置するのかもしれない。時間、場所、人物がわかりやすく、子ども達の目に見えるように描かれている。

バートンの絵本を工藤先生に読んでいただき、なつかしく、明るく、あたたかい気持ちに満たされた。そして、その作品を今の日本の幼い子どもたちに強く薦めたいと思った。バートンの作品は、子どもにとってわかりやすいだけでなく、作品の中に自然讃美があり、古き良きものへのまなざしがある。急速な都市化の中で田園風景が消え、自然に親しんで遊ぶという体験が乏しい子ども達には、絵本の世界の自然の中で安心して遊んでほしい。今の日本の子ども達が成長するにつれて、現実から目を背け、ゲームやパソコンのバーチャルな世界に心の安住を求め、精神が不安定になっていくのを見ているのが忍びない。幼いころにこそ、絵本の世界の自然を安心して楽しんでほしい。

子ども達も大人と同様、東日本大震災後の津波と原発事故の被害を目の当たりにし、また、長引く不況による閉塞感の中で、恐怖感や不安感に煽られ、未来に希望が持てないのだろう。子ども達には心の拠り所となる、安心できる体験が必要だ。幼いころの絵本体験、物語体験として、社会の変化と自然の豊かさや美しさを共に安心して体験できるバージニア・リー・バートンの絵本を薦めたい。変化の時代を生きる子ども達の心の拠り所となり、どんな状況にあっても希望を失わない、柔軟な心を培うのではないだろうか。

(文責:吉村眞由美 NPO法人絵本・児童文学研究センター児童図書相談士1級)

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2013年8月18日 (日)

絵本・児童文学研究センター正会員月間レポート賞:2013年3月正会員ゼミ「アメリカ絵本の黄金期」Ⅴ講師工藤左千夫

 NPO法人絵本・児童文学研究センターの2013年3月正会員ゼミ<「アメリカ黄金期の絵本」Ⅴ 講師工藤左千夫>のレポートで、正会員月間レポート賞をいただきました。お読みいただけるとうれしいです。

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  2012年度正会員ゼミはワンダ・ガアグに始まり、マージョリー・フラック、バージニア・リー・バートン、マリー・ホール・エッツと続いて、アメリカの絵本作家が特集されている。ワンダ・ガアグ、マージョリー・フラック、バージニア・リー・バートンらが絵本作家として正統派に分類され、アメリカの田園で暮らしていたのに対して、今回のゼミで紹介されるモーリス・センダックは、正統派には分類されず、ニューヨークという都会で生活している。

私がセンダックの絵本と出会ったのは、母親として子どもたちに絵本を読み聞かせるようになってからである。『かいじゅうたちのいるところ』は、子どもたちに読み聞かせを何度せがまれたか知れない。また、原作の“Where the Wild Things Are”は、英語の授業中の読み聞かせで、高校生たちに最も受ける絵本の一冊である。高校生たちも幼い子どもたちのように、絵本を食い入るように見つめてくれる。大人を対象にした読み聞かせの会でも同様だった。センダックの絵本は見る者のまなざしを釘付けにする。私自身も、『かいじゅうたちのいるところ』に限らず、『まどのそとのそのまたむこう』や『ミリー 天使にであった女の子のお話』など、センダックの絵本を読み終えた時、不思議なカタルシスが与えられる。読者のまなざしを釘づけにする絵本の魅力とは? また、読み終えた時に得られるカタルシスとは? センダックの作品とその背景に深く迫る今回のゼミを興味深く聴講した.

センダックは1928年ニューヨークのブルックリンに生まれた。両親はポーランド系ユダヤ人である。父親が即興の物語を語るのが上手で、ユダヤに伝わる古い物語をもとに即興の話をしてくれた。病弱だったため、孤独な少年時代を過ごしたセンダックにとって、幻想と神秘の世界への強い興味は幼いころの父親の即興物語にあると言われている。

高校卒業後、ウィンドウ・ディスプレーの仕事を始めたことがきっかけで絵の才能が認められ、挿し絵を書き始め、絵本の世界に入った。絵は美術館に通い、クレーン、コルデコットなど19世紀イギリスの挿絵画家の作品から独学で学んでいる。ルース・クラウスの作品の挿絵を描くことで頭角を現し、1950年代後半から絵本の創作も手掛けるようになった。

ゼミの冒頭で、センダックの作品の根っこにある”dumps”(子どもの憂うつ)について語られた。病弱で孤独な少年時代を過ごしたセンダック自らの憂うつとも重なる。その憂うつは、センダックの初期作品である『わたしたちもジャックもガイもみんなホームレス』(“We Are All in the Dumps with Jack and Guy”)の”Dumps”という原題にも使われている。マザーグースのrhymeの一節だ。子どもたちは憂うつを乗り越えるために現実から空想の世界へと羽を伸ばす。そこにセンダックのファンタジー(物語)が生まれるという工藤先生の着眼点がユニークだ。

センダックの作品は、『かいじゅうたちのいるところ』をはじめとして、『まよなかのだいどころ』など、大人の批判を多数浴びている。言葉づかいやイラスト上の子どもの裸体が問題とされた。しかし、センダックは絵本を創るに当たって、「子ども時代を生き抜く子どもたち」が最大の関心事であることを述べ、世の批判にひるまない。子どもの深層心理を洞察し、子どもの憂うつから発する想像の世界を描いているのだ。センダックは常に子どもの側にいる。読者の中の子どもに語りかける。イマジネーションや弾む心を失った大人たちには理解の届かない世界を描いている。センダックの絵本を読み終えた後のカタルシスは、こうしたセンダックのゆるぎない洞察力と絵本作家としての立ち位置にあるのだと確信した。

「哲学と芸術は苦悩する人間を描くもの」というニーチェの思想が引用され、さらに工藤先生の哲学的な分析が続く。センダックの作品世界に表現されえているペシミズムを、ニーチェの「ディオニュソス的ペシミズム」、つまり、『悲劇の誕生』で説かれた芸術衝動の一つで、陶酔的、創造的、激情的などの特徴をもつペシミズムに類似していると。センダックは、絵本の創作において、「今日の複雑な世界を生きる子どもたちが直面している諸問題」から目をそらさない。子ども時代が夢見心地であるという幻想などつゆ抱いていない。センダックの作品には常に「苦悩する子ども」がいて、不安や恐怖や寂しさを乗り越えるため、想像の世界に羽ばたいていく。子ども時代に独特の感情がしっかり描かれているのだ。大人になってセンダックに触れた私にとって、マックといっしょに怪獣たちと踊ることもミッキーといっしょに夜空を飛ぶことも、自分からかけ離れた遠いことのように思えていたが、センダックの作品世界にニーチェの思想を感受された工藤先生の解説によって、センダックの作品が芸術として身近に感じられるようになった。

 カタルシスもそうだが、センダックの絵本から音楽が聴こえるような感覚を覚えていた。工藤先生の繊細で鋭いセンダック論に触れ、自分が何となく感じていたことをさらに確かめてみたくなり、ゼミを聴講した後、『センダックの絵本論』(岩波書店)を読んだ。冒頭で、まさにセンダックが「音楽を描く」ということを述べている。センダックが子どもの本の絵に欠くことのできないものと考えているのが、純粋な動きの精神、生命を吹き込む息、動きへの揺さぶりであり、それらを最もうまく表していることばとして、quicken(生命を与える)ということばを挙げる。また、その意味を「音楽的に発想する」と解説している。「音楽にはファンタジーを解き放つという独特な力がありますが・・・」とセンダックのことばが続く。センダックの絵本から音楽が聴こえるように感じていたのも、絵本を読み終えた後、解き放たれたような感覚を味わっていたのも、確かな感覚なのだとセンダックのことばから自分の感覚を信じていいんだよと教えられたようで、ほっとしている。このほっとする感覚こそ、センダックの作品の魅力ではないかと感じている。

 子ども達のために描かれたセンダックの絵本の魅力を知り、大人としてほっとすると同時に、日本の大人の子どもたちへの在り方が悲しく思えてならない。子どもたちに体罰を与える教師たち、そして、子ども達を虐待している大人たちに、センダックの絵本を薦めたいと思った。「あなたたちの中にこそ、大人になりきれないで苦しんでいる子どもたちがいますよ。その子どもたちのためにセンダックを読んであげなさい。きっとほっとしますよ。手は子ども達と握手するためにあります。腕は子ども達を抱き締めるためにあります。その手で、その腕で子ども達を叩かず、抱きしめてあげてください」と伝えたい。大人たちから体罰を受け、虐待を受け苦しみ、孤独を味わっている子どもたちに、誰か、センダックの絵本を読んであげてくださいとも。教育現場でも、学力を高めることより、進学率を高めることより、もっと大切なことがあるのではないか。学校司書の設置と読書運動に真剣に取り組んでほしい。家庭でも、子ども達に良書を与え、親子で楽しんでほしい。良質の本と食事と心身共に安心できる環境が、今の子どもたちに最も求められていることではないかと思った。(文責:吉村眞由美 児童図書相談士1級) 絵本・児童文学研究センター 正会員月間レポート賞 

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絵本・児童文学研究センター正会員月間レポート賞:2013年1月正会員ゼミ「物語の行方」 講師 松本徹 工藤左千夫

 NPO法人絵本・児童文学研究センターの2013年1月正会員ゼミ<「物語の行方」 講師 松本徹 工藤左千夫>のレポートで、正会員月間レポート賞をいただきました。お読みいただけるとうれしいです。

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  対談の冒頭で、紙の本は生き残れるか?という問題が投げかけられ、松本徹氏によって、桂川潤著『本は物である 装丁という仕事』(新曜社)が紹介された。松本氏は、電子書籍は便利、紙の本は味わい深いというだけでは生き残れないという。紙の本ができるまでにさまざまな工程があり、それぞれが産業として成立している現在、それらの産業の死活問題でもある。紙の本の製作者それぞれが本気で腹をくくる、覚悟が必要な時が来ていると。

 続いて、それぞれの紙の本は作品が完成するまでに作家の、画家の、翻訳者の、出版社それぞれの決意や覚悟が存在していることが述べられた。角野栄子の「魔女シリーズ」全6巻では、主人公の成長物語として書こうという決意、(伊藤遊著)『えんの松原』では、子ども達のための物語を腰を据えて書き続けるという決意、絵本『きつね女房』のイラストが水彩から油彩にかわり、画家が納得するまで描き続け、出版が一年延びたなど、編集者という立場でしか見ること、知ることのできないエピソードであった。「ちびくろサンボ」の絶版の問題も「差別」について考える材料として残されているが、アパルトヘイトに反対の立場を表明して『カマキリと月』を出版したラヴァン・プレスの出版社としての覚悟は、読者の立場では知りえなかった、まさに命を懸けの覚悟だ。決意や覚悟のもとに生み出された本には読者もそれなりの覚悟で向き合わなければならない。それぞれの作品の新たな存在価値を知らされ、読者として背筋が正されるような思いを味わった。

対談の最後で、電脳化・電子化社会における大人の自覚と決意が問われ、大人が児童文学を感じ、理解し、感動し、子どもに伝えるべきではないか? という読書運動家である工藤先生と編集者である松本氏の共通の問題提起に深く共感を覚えた。

冒頭で紹介された『本は物である 装丁という仕事』を読み、「『テクストのみ』の電子ブックに対し、『物である本』はテクストのみならず、豊かなコンテクストを伴っている。装丁という仕事は、要はテクストに“身体性(物質性)”というコンテクストを与えていく作業といっていい。装丁のみならず、編集や書籍販売など本に関わるすべての仕事も、突き詰めればテクストにコンテクストを付与する作業、といって過言ではないだろう。テクスト(text)とコンテクスト(context) この対照的な二つの概念は、電子ブックを『物である本』の関係を考える上で、欠かすことのできないキーコンセプトとなるように思う」という件が心に残った。電子ブック問題は「身体喪失」の危機を孕んでいるという松本氏の見解にも重なり、「生きたコンテクスト」を編集し、装丁していく出版関連産業の存在を見守っていきたいという思いを強くした。

また、続いて読んだ『センダックの絵本論』(岩波書店)の中で、子どものころ、センダックが初めて本を手にしたときのエピソードが述べられている。「はじめて手に入れた本物の本は、姉が買ってくれた『王子と乞食』でした。・・・まず最初にやったのは、それをテーブルの上に立てて、まじまじと見つめることでした。マーク・トウェインに感銘を受けたからではありません。ただただ、ものとしてとても美しかったからです。それから匂いを嗅ぎました。・・・いい匂いがしたというだけでなく表紙もつやつやしていました。ラミネート加工をしてあったのです。私はそれをはじいてみました。すると、とてもがっちりとしているのがわかりました。私はそれを噛んでみたことを覚えています。」続いて、本作りに関して、「私は子どもたちが本で遊び、本を抱き締め、本の匂いを嗅いでいるのを見てきましたが、それを見れば本作りに心をこめなくてはならないのは明らかです。」(pp.183-4)と述べている。絵本作家としての覚悟や決意の源が幼いころの自分と本の関わりにあることが述べられているが、文字やことばを多く知らない子どもたちにとって、本は何よりも「もの」として存在することがうかがい知れる印象的なエピソードであろう。

今回のゼミでは、子どもの本の行方の伏線として電子書籍化の行方が語られ、時を得た内容であった。いじめや体罰問題を皮切りに、ネット社会の問題性など、子ども達の心身の危機が叫ばれている時代であるからこそ、「もの」である本、身体性を伴った本が子どもたちには必要とされているのではないか。「もの」である本の良書の存在を守っていきたい、そういう決意を心に固く抱いていきたいと思った。(文責:吉村眞由美 児童図書相談士1級) 絵本・児童文学研究センター 正会員月間レポート賞 

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2013年8月17日 (土)

絵本・児童文学研究センター正会員月間レポート賞:2012年10月正会員ゼミ「アメリカ絵本の黄金期」Ⅲバージニア・リー・バートン

 NPO法人絵本・児童文学研究センターの2012年10月正会員ゼミ<「アメリカ絵本の黄金期」Ⅲバージニア・リー・バートン 講師 工藤左千夫>のレポートで、正会員月間レポート賞をいただきました。お読みいただけるとうれしいです。

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わが家では、息子が幼いころ、『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』や『マイク・マリガンとスチーム・ショベル』、『はたらきもののじょせつしゃケイティ』を好み、絵本が擦り切れるほど読み聞かせをしたため、バージニア・リー・バートンの作品は私にとっても思い入れが深い。子どもたちが幼かった日々の思い出を辿るように彼女の作品を読み返し、心温まる思いの中で、今回のゼミを聴講した。

アメリカの絵本の黄金期の作家の中で、ワンダ・ガアグの影響を最も受けていると言われているバージニア・リー・バートンは、独特の文体と場面割の的確さが高く評価されている。その作品の特長や背景が年代順に解説された。バートンは、絵本の創作において、先にストーリーを作り、彼女の子どもたちに読み聞かせをした。そして、子ども達に受け入れられたストーリーを絵本に描いた。耳で聞くために練りに練った独特の文体は、自らの子ども達という最も愛おしく、最も厳しい存在が、そのフィルターとなっていたのだ。

『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』は長男のために、『マイク・マリガンとスチーム・ショベル』は次男のために、『はたらきもののじょせつしゃけいてぃ』は夫のために、『ちいさいおうち』は長女のために創作された絵本だ。『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』は木版画、『マイク・マリガンとスチーム・ショベル』は石版画、その後もスクラッチボードやカラーセパレーションなど作品ごとに手法を変え、新たな職人芸を駆使している。

『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』は機関車の前傾姿勢が独特に描かれており、動きのある作品となっている。また、『マイク・マリガンとスチーム・ショベル』は時代の流れで、新式のガソリン・ショベルや電気ショベルに仕事を奪われてしまったスチーム・ショベルのメアリ・アンが、運転士のマイク・マリガンと二人でがんばって、市役所の建築現場に大きな穴を掘る物語。科学技術の進歩の中、古き良きものへのあたたかいまなざしが感じられる作品だ。中でも、『ちいさいおうち』は1943年、カルデコット賞に輝いた不朽の名作である。田舎の美しい風景に囲まれて建てられた一軒の家が、都市開発が進む中、時代の変化をこえて残され、再び田舎に引っ越していくという物語。バージニア・リー・バートンは、科学技術の進歩による工業化と都市化や経済成長と金融恐慌、二つの世界大戦の勃発や公民権運動等の激動の時代の中で絵本の創作を重ね、子どもたちにさりげなく都市化の弊害を告げ、自然や簡素な生活の大切さを訴えている。

幼いころ息子が夢中になっていたバージニア・リー・バートンの作品の魅力が解き明かされる中、ひとつだけ心残りとなっているのは、バートンの最後の作品である『せいめいのれきし』を子どもたちに読み聞かせしなかったことである。「地球上にせいめいがうまれたときから いままでのおはなし」が5幕の劇仕立てで展開される大型絵本で、8年間という長い年月をかけて創作された大作だ。

日本の児童文学の大家である瀬田貞二氏が『絵本論』の中で「現在私の知るかぎりの子どもの絵本のなかから、どれか一冊最高のものを選べといわれたら、私は、バージニア・リー・バートンの『せいめいのれきし』をとりあげるでしょう」とまで絶賛する名作である。その理由として、「ある理念、ある抽象的な概念を子どもにわかりやすく表現」していることが挙げられている。バージニア・リー・バートンの作品は、内容が子どもにわかるように表現されているという観点においては、世界の絵本作家の最高峰に位置するのかもしれない。時間、場所、人物がわかりやすく、子ども達の目に見えるように描かれている。

バートンの絵本を工藤先生に読んでいただき、なつかしく、明るく、あたたかい気持ちに満たされた。そして、その作品を今の日本の幼い子どもたちに強く薦めたいと思った。バートンの作品は、子どもにとってわかりやすいだけでなく、作品の中に自然讃美があり、古き良きものへのまなざしがある。急速な都市化の中で田園風景が消え、自然に親しんで遊ぶという体験が乏しい子ども達には、絵本の世界の自然の中で安心して遊んでほしい。今の日本の子ども達が成長するにつれて、現実から目を背け、ゲームやパソコンのバーチャルな世界に心の安住を求め、精神が不安定になっていくのを見ているのが忍びない。幼いころにこそ、絵本の世界の自然を安心して楽しんでほしい。

子ども達も大人と同様、東日本大震災後の津波と原発事故の被害を目の当たりにし、また、長引く不況による閉塞感の中で、恐怖感や不安感に煽られ、未来に希望が持てないのだろう。子ども達には心の拠り所となる、安心できる体験が必要だ。幼いころの絵本体験、物語体験として、社会の変化と自然の豊かさや美しさを共に安心して体験できるバージニア・リー・バートンの絵本を薦めたい。変化の時代を生きる子ども達の心の拠り所となり、どんな状況にあっても希望を失わない、柔軟な心を培うのではないだろうか。(文責:吉村眞由美 児童図書相談士1級) 絵本・児童文学研究センター 正会員月間レポート賞

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2013年8月 4日 (日)

絵本・児童文学研究センター正会員ゼミ 「素材と語らい4 ー「こころ」と「もの」の関係ー」

 勤務先の高校が土日と2日間夏季補習が休みとなり、貴重な休みの二日目は通信講座のDVDの受講。


P1015903

 写真は小樽のNPO絵本・児童文学研究センター理事長の工藤左千夫先生。絵本児童文学研究センターのフェイスブック開設について説明されています。
P1015904

 2枚目の写真は講師の栗本美百合氏。臨床心理士であり、ユング派アートセラピストとして芸術療法を研究・実践する栗本美百合先生のゼミで「素材との語らい」シリーズが2010年7月から始まり、毎回楽しみにしています。2013年7月12日 「素材と語らい4 ー「こころ」と「もの」の関係ー」を聴講しました。 

 今回は、その4回目で「ー「こころ」と「もの」の関係ー」がテーマとなっています。今回はセラピストの立場を超えて、創作者として想像力の神秘にまで言及されて、とても興味深い内容でした。
 
 最近は短歌の創作、文章の創作から離れ、英語を教えるという仕事に専念していますので、創作という芸術的な行為が恋しくなってしまいました。いつか、また、余裕ができたら、再チャレンジしたいです。
 創作において、行き詰った時、苦しい中でふっと天から降ってくるようなイメージにどれだけ助けられたか… 過去のささやかな体験から栗本先生の講義に深く共感させられています。
 
 NPO法人絵本・児童文学研究センターは生涯学習として大人のための児童文化講座を開講しています。公式ホームページはこちらです。
 
 追記:私立高校の非常勤講師として英語を教える仕事に専念していますので、書評を書くことやブログの更新がままなりません。絵本・児童文学研究センターの正会員として毎月の講義のDVD受講とレポート提出が児童文学との蜘蛛の糸のような存在です。

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2013年5月 6日 (月)

絵本・児童文学研究センター正会員月間レポート賞:2012年8月正会員ゼミ「『無思想の発見』を読む」 講師佐々木玲仁

 NPO法人絵本・児童文学研究センターの2012年8月正会員ゼミ<「『無思想の発見』を読む」 講師佐々木玲仁>のレポートで、正会員月間レポート賞をいただきました。お読みいただけるとうれしいです。

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 今月のゼミが養老孟司著『無思想の発見』であることを知り、読み始めたものの、書かれていることばが、手のひらから砂がこぼれおちるように自分の脳裏をすり抜けていき、読み進めることができなかった。書かれていることばはやさしいけれど、その示す内容の掴みどころがなく、わかりそうで、わからないという何とももどかしい思いを味わい、読み止しておいた。

そして、佐々木ゼミをDVDで聴講。「『無思想の発見』のブックトーク」と銘打って始められた、その内容が実にわかりやすかった。第1~4章のテーマが「自分って本当にあるのか?」というものであること、そのテーマが「意識は続いているのか?」という問い、また、「記憶はつながっているのか(一貫しているのか)?」という2つの問いを通して語られているということの解説までを聴き、感じるところがあって、DVDを止め、読み止しの本書を初めから読みなおした。すると、「無思想」とは思想におけるゼロの発見であるということが、ストンと腑に落ちた。

五章の始めまでを読み終え、またDVDを初めから聴きなおした。佐々木先生のカウンセリングにおける母子並行面接で母と子の間に事実関係の相違が生じるという実感から、記憶とは過去の事実ではなく、その人がどのように過去を思い出しているかであり、記憶はあてにならないということが述べられ、意識は続いているのか? また、記憶はつながっているのか?という本書の問いに対する具体的な内容の答えが提示され、本書の理解をさらに深めることができた。

「無思想」が「思想」におけるゼロであることに続いて、本書では「どうしたら、無思想を維持できるのか?」について述べられている。現実は感覚世界に属し、思想は概念世界に属する。感覚を研ぎ澄ませれば、違いが際立ち、概念は同じであることを追求するゆえ、無思想を成立させてきた世間が機能しなくなってきた現在、いかに無思想を維持できるかは、個々人が自分の感覚といかに向き合うかにかかっているということにかかっているという。本書の著者である養老孟司氏は、無思想を維持するのは世間ではなく、また、概念世界でもなく、感覚世界を意識的に直視していくことにかかっていると結論づけている。

佐々木氏は、昨今の発達障害や過去の解離性障害、境界性人格障害の例をあげて、心理の世界における概念化、つまり、診断の困難や問題性を述べ、カウンセリングにおける感覚世界の大切さを述べているが、自分自身の人生においても、頭で考えて決断したことより、直観に従って行動したことの方が納得のいく結果となっていることを感じていた。佐々木氏のブックトークを聴講したことで、論理的な思考で読み始め、掴みどころがなかった本書を感覚的に受け止めることができた。これからの人生、自分の感覚を信じて生きていくことができそうだ。(文責:吉村眞由美 児童図書相談士1級) 絵本・児童文学研究センター 正会員月間レポート賞 

 

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絵本・児童文学研究センター正会員月間レポート賞:2012年5月正会員ゼミ「アメリカ絵本の黄金期」Ⅱマージョリー・フラック 講師工藤左千夫

 

NPO法人絵本・児童文学研究センターの2012年5月正会員ゼミ<「アメリカ絵本の黄金期」Ⅱマージョリー・フラック 講師工藤左千夫>のレポートで、正会員月間レポート賞をいただきました。お読みいただけるとうれしいです。

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 ワンダ・ガアグに関する先月のゼミに続いて、今月のゼミではマージョリー・フラックの作品の魅力が紐解かれた。1930年『アンガスとあひる』(福音館書店)の出版以来、次々と子どもの本を生み出したマージョリー・フラックは、ニューヨーク州ロングアイランド、グリーンポートの生まれ。アート・スチューデンツ・リーグで学び、挿絵画家となった。1958年没、アメリカの絵本の黄金時代の基礎を共に築いたワンダ・ガアグより、12年ほど長く生きている。
 ボヘミアからの移民である両親から生まれたガアグ、そして、スコットランド出身の両親から生まれたフラック。ガアグの作品にはストーリーの中に、ヨーロッパの民話が、そして、ガアグの作品にはスコットランドのアンガス地方やスコッチテリアという犬種にスコットランドの風土が感じられる。
 娘に毎夜語ったお話を基にして描かれた『おかあさんだいすき』(岩波書店)や犬のアンガスを主人公として描かれたアンガスシリーズ、イースターのうさぎを主人公として描かれた『ふわふわしっぽと小さな金のくつ』(PARCO出版) や中国帰りの知人の話を基に描いた揚子江のアヒルの話『あひるのピンのぼうけん』(瑞雲舎)・・・ フラックの作品は、モデルが全て実在であり、実際に起きた事柄を基に描かれている。そのため、物語のリアリティが高い。とりわけ、アンガスシリーズは、終始犬のアンガスの視線で描かれており、自分の目線とアンガスの目線と複眼的に味わうことができる。
 
 フラックの絵本は幼児の読み聞かせの絵本として最適であると評価されている。簡潔な文と明瞭な輪郭線に水色や黄色の色彩を配色した絵で描かれたフラックの絵本は、文と色彩の両者が緊密に絡み合い単純なメリハリのきいたストーリーが展開されており、子どもたちは、テンポよく、好奇心を満たされながら、安心して、その世界を楽しむことができる。
 ガアグ、そして、フラックというアメリカの絵本の黄金期を築き、後の絵本に大きな影響を与えた作品を味わいながら、心あたたまる一方で、今、現実の社会で起きている中学生のいじめによる自殺の問題が頭を離れなかった。1980年代後半に起きた中野富士見中学校のいじめでは、教室で葬式ごっこが行われ、先生までもが加担していたと報告されている。以降、いじめの問題は絶えることなく、陰湿化、凶悪化の一途をたどっている。もし、彼らが幼い頃、ガアグやフラックの作品に触れていたら・・・との思いが過ぎる。
 子犬のアンガスの視線で庭を歩き、アヒルを追いかけ、アヒルに追われ、迷子になったり、ねこを追い回したり、ねこといっしょにご飯を食べたり・・・、幼い心で、不安や孤独感、喜びや悲しみを間接体験していたら、決して、大切な友達に危害を加えたり、脅したりしないだろう。
 思春期特有のフラストレーションや孤独感や不安感から、誰しもアイデンティティの危機に陥る。とりわけ、抽象言語が乏しい子どもたちは思春期になってにわかに複雑になってくる自分の心理をことばにできず、その解決の糸口が見いだせない。憤懣やる方ないエネルギーが負のベクトルを持ち、いじめのような行為に及ぶのだろう。しかし、自殺を強要するような行為は、凶悪な犯罪だ。いじめを通り越した劣悪な行為が、子ども達の間で起きているという現実を深刻に受け止めたい。
 学校に警察権力が入ることや、校則や法律の厳格化が検討されているようだが、規制だけではいじめはなくならないのではないか。今こそ、子どもたちへの絵本の読み聞かせを推奨したい。そして、学童期の子ども達には、学校単位で読書運動に取り組んでほしいと思う。学校司書や児童図書相談士のようなアドバイザーの配置を子ども達のために切実に求めたい。世界的なロングセラーとなっているガアグやフラックの作品に触れて、幼い頃から豊かな感性を育むことが今、最も必要とされていることではないかと思った。(文責:吉村眞由美 児童図書相談士1級) 絵本・児童文学研究センター 正会員月間レポート賞 

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